地域の歴史を知り、学び、そして楽しむ――港北区の歴史、そして文化、そこに生きる人が歩む足跡を記録し、分かちあうことで、新たな未来を描こうという新連載「【わがまち港北番外編】こうほく歴史まち歩き」を、先月(2021年)1月からスタート。
港北区内を12の地区に分けて、地域の歴史や名所・旧跡、名物や新たな街の動きといった「まち歩きスポット」を紹介するというコンセプトで、著書『わがまち港北2』(2014年5月発行)、『わがまち港北3』(2020年11月発行)の著者としても知られる林宏美さん(公益財団法人大倉精神文化研究所研究員)の取材・執筆によるエッセイを掲載しています。
横浜市の北部に位置し、市内で最多の人口を持つ「港北区」の過去、そして今を知り、学び、そしてそれについて語れる貴重な機会、ぜひ、前回の初掲載記事(第1回~日吉地区・前編)とともに、今回の「続編」記事もお楽しみください。
※「新横浜新聞~しんよこ新聞」と「横浜日吉新聞」の共通記事です。
こうほく歴史まち歩き「日吉の昔と今を歩く」(後編)【第2回】
先月(2021年1月)から、港北区内の歴史・名所・名物などを紹介する連載をスタートさせていただきました。
連載では、コロナ対策をしっかり行いつつ、区内の12地区を実際に歩き、それぞれの地域の歴史と今をたどれる内容にと執筆しました。
さて、最初に紹介するのは日吉地区です。地区の成り立ちや地勢、歴史については、「シリーズわがまち港北」の第216回「日吉地区―地域の成り立ち、その12」で詳しく紹介していますので、是非そちらも合わせてご覧ください(書籍『わがまち港北3』142~145ページ、公益財団法人大倉精神文化研究所のサイトに掲載しています)。
日吉地区は日吉、下田町、日吉本町、箕輪町の4つの地域で成り立っています。前回の日吉駅をスタートして順番に「まちあるき」を行ったスポットについて紹介しています。
(4)慶應日吉グラウンドのラグビー場(下田町)
矢上から再び綱島街道を渡って、一気に下田町まで足を延ばします。
下田町には慶應義塾大学の日吉グラウンドがあり、そのラグビー場には「日本ラグビー蹴球発祥記念碑」があります。一昨年、アジア初の開催となったラグビーワールドカップ日本大会に盛り上がったのは記憶に新しいところです。区内の横浜国際総合競技場(日産スタジアム)でも、決勝を含む7試合が開催されました。
筆者は現地で試合観戦とはいきませんでしたが、決勝戦当日の新横浜駅で、国内外から集ったラグビーファンの熱気だけは体感することが出来ました。
さて、日本人によるラグビーは、1899(明治32)年に慶應義塾のイギリス人教員だったエドワード・ブラムウェル・クラーク氏が友人の田中銀之助氏とともに塾生へラグビーを指導したのが始まりとされており、1943(昭和18)年に発祥記念碑が建てられました。
しかし当時、下田町にグラウンドはありませんでしたので、実際にラグビーが行われたのは三田のグラウンドだと思われます。
また、日本のラグビーの起源としては、1866(慶応2)年にイギリス人を中心とする横浜在住の西洋人が横浜フットボールクラブを設立し、1873(明治6)年に試合を行ったことが始まりとされています。
いずれにしろ横浜はラグビーととても縁のある場所です(詳しくは「大好き!大倉山 第43回 ラグビーワールドカップ記念―地域の外、その1」書籍『わがまち港北3』269~270ページを参照)。
ラグビーと港北区のつながりは昔話だけではありません。日本人初のラグビーチームとして歴史を持つ慶應義塾體育會蹴球部(ラグビー部)は昨年行われた「港北オンラインラジオ体操2020夏」で映像にも登場しました。ご覧になった方、実際に参加された方もいるでしょう。
また、ラグビー部は一昨年(2018)年の11月、ラグビーワールドカップ開催に合わせて区内の小学生を対象に行われた「港北区&慶應ラグビー・スポーツ体験会」にも協力し、実際に指導もしています。
また、ラグビー部のOB・OG組織である一般社団法人慶應ラグビー倶楽部では、日吉グラウンドを会場に、運動を通じて子どもたちの体と心に関する能力の成長をサポートする慶應KPA(キッズパフォーマンスアカデミー)を主催しています。競技だけでなく地域貢献にも積極的に取り組んでいる慶應ラグビー部、その活躍を地域で後押ししていきたいところです。
(5)金蔵寺(日吉本町)
下田町からサンヴァリエ日吉のマンション群を抜けて東へ進むと、日吉本町に出ます。日吉本町には「日吉」の地名の由来となったと伝えられる日吉山王権現が祀られた金蔵寺があります。
本堂裏手の高台にある日吉山王権現の横には、「日吉」の由来を記した石碑もあります。
ちなみに金蔵寺は横浜七福神の1つ、寿老神が祀られています。今年も、新型コロナウイルス対策を講じて、例年通り1月7日までご開帳が行われました。
金蔵寺には、日吉出身で今でも神奈川県唯一の横綱、武蔵山が愛した「遺愛の松」も植えられています。散策の時にはその前に「未来」の花文字が作られていました。
他にも境内には、2016(平成28)年7月に開眼された釈迦如来坐像があり、筆者も初めて目にしましたが穏やかな表情をたたえています。
なお、筆者は本堂の右手前で暖かそうな帽子をかぶって箒を持つ小僧さんの像にも心がほっこりしました。
金蔵寺から、赤門坂、日吉台小学校、普通部通りを通って再び日吉駅に戻ります。
赤門坂には。荷車の牛が坂を登れないのを見かねた武蔵山が、牛に代わって荷車を引っ張ったという逸話も残っています。また、相撲つながりでは、以前、普通部通りには高砂部屋直伝のちゃんこ鍋が食べられる「大田山」がありましたが、残念ながら2019年に閉店しています。
(6)箕輪町の再開発とその隣接エリア(日吉~箕輪町)
日吉駅のシンボル、銀球(ぎんたま・ぎんだま、正式名は「虚球自像(こきゅうじぞう)」)の横を通り過ぎて、再び東口に出たら今度は最初に行った矢上キャンパス方面とは逆方向、箕輪町方面に向かいます。
2016(平成28)年3月に閉鎖された「日吉台学生ハイツ」の跡地に建つ伊藤忠商事日吉寮を横目に、相鉄・東急直通線工事の囲いに沿って綱島街道を歩いていくと、アピタ日吉店跡地で進められている野村不動産による大規模再開発、「プラウドシティ日吉」の建築現場が見えてきました。
筆者はアピタの完全閉店直前にこの場所を見に来ました。それ以来あまりこの場所を通る機会がありませんでしたが、まず建てられているマンションのあまりの巨大さに圧倒されてしまいました。
その手前にあって以前と何ら変わりのないマツモトキヨシ日吉箕輪店との対比にもびっくりです。
通りを挟んでマツキヨの向かいにあり、昨年4月にオープンしたばかりの複合商業施設「SOCOLA(ソコラ)日吉」も魅力的ではあるのですが、少し霞んでしまいました。
プラウドシティ日吉に隣接する箕輪小学校は、シリーズ『わがまち港北』で日吉地区を取り上げた2016(平成28)年12月には、仮称「日吉台小学校第二方面校」でしたが、新設校へ移る児童や地域住民へのアンケートから、2017年(平成29)年3月に地名を取った箕輪小学校に正式な校名が決まりました。未来へはばたく青い鳥をモチーフにした校章も素敵です。
開校は昨年(2020年)4月でしたが、コロナ禍で通学は叶わず、6月にようやく新しい校舎での授業が始まりました。延期されていた開校記念式典も11月27日に実施されたばかりです。
箕輪小の児童数は現在594名ですが、再開発によるまちづくりの進展と、相鉄・東急直通線の開通等で増えるであろう地域人口を考えると、今後の児童数の増加が一体どれ程になるのか、想像がつきません。
そこからさらに綱島街道を進み、北綱島交差点まで来ると、その向こうに見える先はもう綱島地区です。
日吉地区散策の最後に立ち寄ったのは、1929(昭和4)年に綱島で創業した箕輪町の老舗パン屋さん、「パン工房ロアール」本店です。
ロアールでは最近ブームの生食パンとトトロのパンを買って帰ることにしました。
茅ヶ崎の自家養蜂場で採取した純粋100%はちみつが練り込まれているという生食パンは確かに甘みがあり、とても美味しかったです。トトロのパンは息子へのお土産にしたのですが、怖いと言って食べてくれなかったのがちょっと残念でした。
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前回の連載(前編)も通じた散策で一番印象に残ったのは、野村不動産が進めるアピタ日吉店跡地の再開発です。
たまたま一番最後に行くことになったせいもあるかも知れませんが、その様子を目にした時、今後何年何十年も先に箕輪町のことを語る時、必ず触れることになるであろう地域の歴史が目の前で生まれていることへの感動がありました。
今後も可能な限り経過を見に行き、未来の歴史として記録を残しておきたいと思います。
また今回の散策では、地域の古刹である金蔵寺や日吉神社をはじめ、その他の寺社にも立ち寄りましたが、手水鉢や鈴緒、念珠等の使用は禁止されていました。
神様仏様への祈りも思うようには捧げられない「コロナ禍」に、改めて心が痛みました。
ただ、久しぶりに日吉地区をじっくり歩いてみて、新しい発見やまちの変化に触れることが出来、とても楽しい散策でした。
やはり文字や写真で見るのと、実際に目で見て感じる印象は違います。
港北区エリアの12地区の中には、日吉同様久しぶりに歩くことになる地域もありますし、まだ未踏の地域もあります。これからの散策と執筆も楽しみです。
※ 次回(第3回、2021年3月)は「菊名地区」を掲載予定です。
<執筆者>
林宏美(はやしひろみ):1982年4月神奈川県小田原市生まれ。中央大学大学院博士前期課程修了。2009年4月大倉精神文化研究所非常勤職員、2011年7月常勤。2014年4月同研究所研究員(現在に至る)。勤務する研究所の創立者・大倉邦彦氏と誕生日がピッタリ100年違いという奇跡の巡りあわせにより、仕事に運命を感じている。小田原市在住(2011年から2014年まで大倉山に在住)。趣味はカラオケとまち歩き。一児の母。子育ての合間にSNSで地域情報をチェックするのが日々の楽しみ。冬の澄んだ青空の下で見る大倉山記念館と梅の時期の大倉山の賑わいが好き。
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・【わがまち港北番外編】こうほく歴史まち歩き~第1回:日吉の昔と今を歩く(前編)(2021年1月13日)
・地域の歴史楽しむ「わがまち港北」、著者が区内小・中学校に最新刊を寄贈(2020年12月2日)
・“港北を好きになって”と著者の平井さん、最新「わがまち港北」を図書館に寄贈(2020年12月29日)
【参考リンク】
・書籍『わがまち港北』公式サイト(『わがまち港北』出版グループ~事務局:地域インターネット新聞社)