【レポート】小机城で鋳造(ちゅうぞう=金属をいったん溶かして別の形に固める加工方法)が行われていた痕跡が発見されています。
横浜市教育委員会は「小机城址市民の森」(小机町)で今月(2023年)12月2日(土)に「令和3年度・令和4年度小机城跡発掘調査成果報告会」を開き、今年1月から2月に行った二度目の発掘調査を含め、これまでの調査成果を参加者に解説しました。
小机城址では、一昨年(2021年)11月・12月(令和3年度調査)と今年1月・2月(令和4年度調査)の2回(計6カ所)にわたって市教育委員会が横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センターとともに発掘調査を実施。
このうち、今年1月10日から2月末にかけて行われた二度目の調査では、予定されていた現地見学会が降雪で中止となっており、今回の成果報告会は市民らに調査の結果を説明する初めての機会となりました。
今年の調査は「本丸広場」(西曲輪=にしくるわ)の4カ所で行われており、城址への出入口となっている「根古谷(ねこや)広場」寄りの2カ所と、第三京浜道路寄りの2カ所を掘削したものです。
遺物に鉄を溶かしたようなものが付着
本丸広場の東側に位置する西曲輪「東」調査区では、幅2メートル、南北7メートルにわたって3メートルの深さまで人力で掘削。
1メートル程度を掘ったところで、「関東ローム層」(数万年以上前の地層)が現れ、ここで弥生時代の住居跡や土器が見つかっています。
小机城が築城されたといわれる1400年代半ばよりも古い遺跡で、城として使われる以前の古代から人が住むのに適した丘だったことが証明された形です。
この調査場所からは中世の素焼き土器「かわらけ」や陶磁器などが多く出土。一部の表面には鉄を溶かしたようなものが付着しており、「鍛冶(かじ)や鋳造(ちゅうぞう)を行っていたことが分かったのは大きな点」(現地説明員)と話していました。
また、東調査区と近接した「南」調査区では、一辺約1.5メートルの隅丸方形(すみまるほうけい)と呼ばれる四隅の丸い遺構を検出。
「隅丸方形という規格性のある平面形であることから、城の施設に関わる遺構の可能性があります」(当日の説明資料)と分析しています。
築城時に古墳時代の遺跡を活用?
1回目の調査(2021年)で対象とした「北空堀」の傾きを探るため、連続した場所に設定された西曲輪「北」調査区。
今回の調査により空堀の角度が約35度にのぼっていたことが分かりました。
また、この北調査区では人為的に突き固められたような黒色の土が堆積。このなかから古墳時代後期から終末期のものとみられる高杯(たかつき)や土師器(はじき)が出土しています。
現地の説明では「築城時に古墳時代の遺跡を壊し、城をつくる際の土として転用されて突き固められたのではないか」との見方を示していました。
60年前の緊急調査場所を特定
第三京浜道路寄りに設定された西曲輪「西」調査区は、今から60年ほど前の道路建設時に行われた発掘調査の場所を特定するために設けられました。
小机城址の一部は第三京浜道路の高架橋が貫いたことで遺跡が破壊されていますが、工事前の1964(昭和39)・65(昭和40)年には学習院大学史学部の学生らによる「輔仁会(ほじんかい)」という組織が緊急調査を実施したという記録が残されています。
ただ、当時の調査記録はわずかな量しか現存しておらず、調査場所など詳しいことは分かっていませんでした。
今回の調査では、残された写真や当時の調査に参加した人への聞き取りなどを頼りに掘削範囲を設定。この範囲を掘ったところ、一部で新しい土が入り込んでいることが分かり、60年前の調査場所を特定することにつなげました。
なお、これまでに行われた過去2回にわたる調査の結果は来年(2024年)3月までに報告書としてまとめられる予定となっており、まだ解明されていない点の多い小机城について新たな知見が加えられる可能性があります。
【関連記事】
・【1回目の調査結果】市教委が「小机城」を初めて発掘、二の丸広場近くで“柱の痕跡”、空堀には土器(2021年12月7日)
【参考リンク】
・横浜市教育委員会事務局「文化財・埋蔵文化財」(過去の説明会資料なども掲載)