【ラグビーワールドカップ新横浜レポート第3回:特別編】今月(2019年)9月20日から始まったラグビーワールドカップ。今大会で最大規模となるのが日産スタジアム(横浜国際総合競技場)なら、最小規模は岩手県釜石市にある復興スタジアム。ここには新横浜とはまったく違うラグビーW杯の姿があった――と話す港北区在住のライター・田山勇一氏が「特別編」としてレポートします。
人口わずか3万超の街で2試合を開催
収容人数7万2327人という日産スタジアム(横浜国際総合競技場)を持ち、基礎自治体としては日本最大となる人口374.8万人をようする横浜市は、今回のラグビーワールドカップ(W杯)では最大規模の開催都市として、決勝戦をはじめとした重要ゲームが7試合も組まれる“メイン会場”となった。
一方、人口わずか3万3000人、収容人数1万6000人ほどの会場しか持たない岩手県釜石市は、都市もスタジアムも今大会でもっとも小さな規模。人口34万人の港北区と比べてもはるかに小規模だが、2試合が行われる。
最大都市・横浜で開かれる“大型試合”では見えてこないラグビーW杯の姿があるのではないか――。そんな思いで釜石まで観戦に出かけた。
色々と理由を付けてはいるが、実は公式チケット販売サイトで「2019円」という入場料の安さに目を奪われ、チケットが“カゴ”に入ったこと自体が嬉しくなって、思わず買ってしまったのが本当のところだ(ラグビーW杯のチケットは、「在庫あり」となっていてもカゴに入らないことが多々ある)。
港北区内から釜石を往復するには交通費だけで3万円超が必要となるので、総額で見るとまったく安くはないのだが、それこそ「一生に一度」ということにした。
江戸末期から続く「製鉄所」の元祖
北海道に次いで面積が2番目に広い岩手県。三陸海岸沿いにある釜石という街は、単純に表現すると、東京から東北新幹線でまっすぐ盛岡近くの新花巻まで行き、今度は太平洋へ向かって「右折」し、ひたすら海へ突き当るまで進んだ先にある。東京駅からは最短でも5時間を要する。
新幹線の通る新花巻まではそう遠く感じないが、その先は、途中には「カッパ伝説」で有名な遠野くらいしかまとまった街がなく、山深い地ばかり。峠を越えるのに時間がかかるのである。
海沿いの小さな平地に開けた釜石だが、駅を降りても海の街という雰囲気はあまり感じられず、駅前にデンとそびえているのが“新日鉄釜石”の名で知られる製鉄所で、街の象徴といえる存在だ。
釜石は江戸末期から続く製鉄所の元祖であり、戦前から昭和30年代までは日本を代表する製鉄の街として、最盛期には現在と比べて3倍に迫るほどの人口があったという。
「何もすることない」釜石でラグビー伝説
製鉄所が隆盛を極めていた頃に結成されたのが「新日鉄釜石ラグビー部」だ。
勤務後の時間の少なさや、厳しい冬というハンディを逆手にとった濃密な練習を繰り返し、1979(昭和54)年から1985(昭和60)年までの間、7年連続の日本一という偉業を達成した。
当時のスター選手で、生まれも育ちも東京だった松尾雄治さん(現在は65歳)は自著に「釜石というところは、仕事とラグビーをやる以外に、あとは何もすることのない町である」と書き残している。“田舎”だったからこそ、ラグビーと真正面から向き合える環境だったようだ。
現在の釜石では、製鉄所の役割が縮小されており、東京丸の内に本社を置く日本製鉄株式会社のいち事業所として300人超が働くに過ぎない。
製鉄業が規模を縮めると同時に、ラグビー部も2001年から「釜石シーウェイブス」という市民チームに変わり、今はまだ国内最高峰のトップリーグに昇格できていない状況だ。
7連覇からすでに30年以上が経ち、釜石がラグビーの街だったことを知らない人も多くなった。
それでも、40代以上のラグビーファンにとって「新日鉄釜石」の名は絶大で、釜石と言えばラグビーの街という印象は今も消えない。その知名度と栄光の歴史は、後に東日本大震災からの復興のシンボルとして、ラグビーW杯の誘致につながった。
駅では乗客全員をハイタッチで出迎え
新花巻駅から1日に3本しかないディーゼルカーの快速列車で幾つも山を越えてたどり着いた釜石駅では、試合前日だというのに、改札口前にはボランティアスタッフが一列に並んで待機。
「ようこそ釜石へ!」と乗客全員とハイタッチして出迎えてくれた。
少し照れてしまうが、横浜からは遠い道のりだっただけに、なんだか嬉しい。
街を歩いても、青っぽい共通ユニフォーム(これは全国同じ)を着た公式スタッフともに、地元の高校生ボランティアも混じって挨拶と道案内。
駅から離れた中心部までの道のりには、華やかな花壇がずっと整備されている。
新横浜の街でも、駅とスタジアムの間を中心に花を増やす取り組みに力を入れているが、地元民としては見慣れてしまった風景。でも、旅行者として初めて接してみると、気持ちの良いものだと知った。
津波被害の集落に「復興スタジアム」
今は美しい花で彩られている釜石の街も、8年半前の東日本大震災時の大津波で徹底的に打ちのめされている。
海に近い中心部を破壊した後、がれきや車とともに、海岸から離れた駅付近まで濁流が押し寄せた。
駅を境に街の姿が一変したのだが、それより奥の山側にある家々では、停電で情報が遮断し、同じ街で一体何が起こっているのかがまったく分からなかった人も多かったという。
山の谷間にも街が開けていた地形が幸いし、釜石の街が全滅するような事態こそ避けられたが、中心部から離れた「リアス式海岸」の湾ごとに形作られていた集落は、ことごとく大津波で破壊されてしまった。
すべてをさらわれてしまった集落の一つ、釜石中心部から山を2つほど越した先に「鵜住居(うのすまい)」というめずらしい名の地がある。
釜石駅から2駅という距離だが三陸鉄道のディーゼルカーで12分を要し、釜石市内ながら中心部からは少し離れた場所だ。港北区内でいえば、端にある小机から日吉までの距離より少し長い。
この集落に「復興スタジアム」と名付けたラグビー専用競技場が新たに建てられ、ここがラグビーW杯の試合会場となっている。
悲劇と奇跡の集落「鵜住居(うのすまい)」
本題へ入るまでの説明が長くなって恐縮だが、なぜ釜石でラグビーW杯が行われるのかを伝えるうえで、「日本初の製鉄所」「7連覇の新日鉄釜石ラグビー部」「東日本大震災からの復興」という3つのキーワードからは離れることはできず、どれか1つが欠けても今回のラグビーW杯が実現することはなかった。
特に今回のW杯でラグビー専用スタジアムが建てられた鵜住居集落は、“悲劇と奇跡の地”と言われている。
東日本大震災時には、鵜住居の「防災センター」と名付けられた2階建ての真新しい建物に避難した住民が津波に巻き込まれ、160人以上が亡くなった。
この建物は、標高こそ高くないが、海岸から1.2キロ離れた地にあって、高い場所へ移動するのが困難な高齢者に配慮し、津波避難の訓練時にも使われていたという。
実際にその地に立ってみたが、海の気配はほとんど感じられず、家々が建っていた当時はなおさらのことだったはずだ。それでも津波は容赦なく来襲した。
一方、多くの死者を出した防災センターよりさらに海岸沿いにあったのが釜石東中学校と、その隣の鵜住居小学校だ。
地震発生直後から中学生も小学生も低学年の子の手を引き、津波やがけ崩れの危険を回避しつつ、迅速に安全な場所へと避難している。
校舎は津波で破壊されたが、それは全員が逃げた後だった。今、スタジアムが建っている場所は両校の跡地である。
子どもが夢を持てる復興のシンボルを
釜石市内では、死者・行方不明者を合わせ1000人以上の犠牲者が出てしまったが、鵜住居の小中学生だけでなく、市内の児童や生徒の被害は、学校を長期に休んでいた子などを除きほぼなかった。
たとえ下校後であっても、学校での教えを守って、地震が起きた後はすぐに高台へ避難したからだ。
友達と港で釣りをしていたり、一人で留守番していたり、保護者が一緒にいないなかでも自ら考えて高い場所へと走った。なかには避難をためらう家族を泣きながら説得し、全員の命が救われたケースもあったという。
釜石市の子どもたちがとった行動は、“釜石の奇跡”と呼ばれ、東日本大震災で徹底的に痛めつけられた街での希望の光として、全国に大きく伝えられた。
そんな釜石に、子どもたちが夢を持てる復興のシンボルとしてラグビーW杯を誘致できないか――。
震災間もないころから、釜石でラグビーに関わっていた人たちを中心に、自然とそんな動きが起こり始める。
ただ、街は仮設住宅や道路など生活インフラの復旧に忙殺され、スタジアムもない。こんな時になぜラグビーW杯なのか、と反対の意見もあった。
当初は夢物語に過ぎないと思われていたW杯誘致だが、市民とともに市内外のラグビー関係者が奔走し、8年以上の月日をかけて現実のものとなった。
開催都市には何かと注文ばかり付けてくるラグビーW杯の主催者だが、視察団が更地でしかなかった鵜住居のスタジアム建設予定地を訪れた際、釜石の人たちが「富来旗(ふらいき)」と呼ばれる大漁旗を振って出迎えたことに深く感動していたという。
地震から3000日超、ついにW杯実現
東日本大震災の発生から3121日が経った2019年9月25日(水)、「釜石鵜住居復興スタジアム」でラグビーW杯の初戦となる「予選プールD」のフィジー対ウルグアイ戦は14時15分から行われる。
試合日の朝、釜石市街の食堂で「ラガー麺」なる名物ラーメンをすすっていたら、初老の爺さんが店に入ってきて、店主にこんなことを言った。
「ワールドカップって言ったって、一体どこの国が戦うのかもわかんねもんな。こないだの日本代表(7月に釜石で行われた日本対フィジーのテストマッチ)のほうが盛り上がったな」
確かに、今日戦うフィジーとウルグアイ、翌月の10月12日に対戦するカナダやナミビア(南アフリカと接した国)と、釜石で試合を行う4カ国は、カナダ以外の知名度は高いとは言えず、ラグビー界においても「ティア(tier)2」と呼ばれる実力が乏しいとされる集団に入っている国々だ(日本もその一員)。
日産スタジアムのように、ニュージーランドや南アフリカといった世界が注目する「ティア1」の有力チームが対戦するわけではなく、釜石での対戦カードだけを見たら、W杯のベスト8や優勝国を決めるうえで、重要であるかどうかは分からないのも事実だ。
どこかほほえましい会場の雰囲気
昼になってスタジアムのある鵜住居まで移動した。スタジアム周辺は、カメラを抱えたマスコミの姿が目立つ以外は、年に一度の「市民まつり」といった雰囲気だった。新横浜や小机のように、海外からの観戦者もあまり多くはない。
市内中心部と会場の鵜住居を結ぶシャトルバスや本数の少ない三陸鉄道には長い列ができていたが、路線バスは渋滞も大きな混雑もなく坦々と走った。
市外から訪れたとみられるラグビーファンも多いが、それよりも近所から来たといった様相の初老の人々(平たく言うと、おっさんや爺さん婆さん)をはじめ、赤ちゃんを抱いた母親、そして赤白帽をかぶった小学生や体操服姿の中学生たちも先生に率いられ、次々と会場へやってくる。
日常感がいっぱいでほほえましく、これから目の前で世界的な試合が行われる緊張感は湧いてこないが、どこか楽しい。
横浜と全然違った充実のフード販売
会場内の飲食ブースは、「FOOD」とか「BAR」とか書かれた例の青い統一看板を掲げたテントが多数出ている。
日産スタジアム開催時のように、またも盆踊りの夜店めいた焼きそばや唐揚げを長蛇の列に並んでまで食さなければならないのか、と一瞬警戒したが、よく見るとすべての店が異なるメニューを提供していて、地元の海産物から名産品、弁当までなんでもある。
統一看板には、商店名や店の住所が書かれた小さな紙が貼りだされていて、岩手県をはじめとした東北にある店しか出ていない様子。
会場内だけで東北6県の名物(B級グルメが中心だが)を制覇できそうなほど充実している。これこそが、主催者が主張するところの「多種多様な飲食コーナー」なのではないか(「飲」は異なる)。
日産スタジアムでは、スポンサーと販売事業者の権益しか考えていないように見えた主催者らも、復興支援という背景もあるのかもしれないが、釜石では、飲食しながら観戦するという日本の文化を尊重したようだ。
一方、「BAR」と書かれた飲料販売店は、相変わらず最高位スポンサーである緑色の欧州発ビールと数少ない飲料しか扱っていない。
しかし、給水所も2カ所あり、同じくスポンサーであるサントリー製の南アルプス天然水を紙コップに注いで無料で提供している。
1杯700円する緑色の缶ビールが入ったプラスチックのカップを、海外客観戦者が左手で次々と飲み交わしているというような光景はなく、昼食のついでに一杯という日本人が目立つ。今日は平日であり、なにより、会場には小中学生も多い。
小中学生の「ありがとう合唱」に目頭が熱く
昨年(2018年)夏に完成したばかりの復興スタジアムは、6000席ほどの規模だが、ラグビーW杯への対応として仮設スタンドによって1万6000席に増設している。
仮設なので歩くとギシギシと音は鳴るが、ラグビー専用スタジアムなので、とにかく観やすい。
たとえ、最上段にある席でも、何の支障もなく選手の動きを確認することができる。
試合前のセレモニーが始まった。メインスタンドには今大会の名誉総裁である秋篠宮ご夫妻の姿も見えた。
釜石の子どもたちが詩を考えたという「ありがとうの手紙」がスタジアム内に流れる。世界中からの支援に感謝の思いを伝える歌だ。
音源に合わせ、ゴール裏のスタンドを埋めた2000人以上の小中学生が合唱している。
大津波後の絶望感と今日までの苦労、この試合の開催に尽くした人の思いなどを脳裏に浮かべ、部外者ながら目頭を熱くしていたら、歌の2番あたりの途中でブツッと音源が切られ、「さあ、今日の試合は……」とノリの良いアナウンスが割り込んだ。
あっけに取られているうちに、黙とうなどを経て、そのままキックオフのカウントダウンへと流れた。
地元新聞である岩手日報によると、W杯組織委員会は運営上の都合などとして、こうしたセレモニーを行わない方針だったが、岩手県と釜石市が要望し、前夜になってようやく実現した経緯があったのだという。
日本で行われていても、これがラグビーW杯の流儀というものなのか、と諦めに似た思いを持った。
格下ウルグアイが「番狂わせ」起こす
試合では、格下であるはずのウルグアイが前半から優位に展開。世界ランクというものの知識がなければ、今日は水色のユニフォームを着ているウルグアイ代表のほうが強国のようにしか見えない。
フィジーは同日付けの世界ランクが10位で、ウルグアイとは9つも差を付けているが、コンバージョンキックをことごとく外し、パスミスも多い。特にどちらかを応援しているわけでもない観客からも、ため息が漏れる。
筆者が買った2019円という一番安い席は、“地元のおっちゃん・おばちゃん”にしか見えない人々が目立つが、新日鉄釜石の街だけあって、ラグビーはかなり詳しい様子だ。
ミスを連発するフィジーに対しては時に「何やってんだ!」と厳しい声も投げかけている。
今年7月に行われた日本代表とのテストマッチ以来、二度目の釜石登場となるフィジーは、小学生たちからの声援も多いが、なかなかエンジンがかからない。
試合終了間際にフィジーが格上の意地を見せてトライを決めたが、コンバージョンキックが成功しても1点差で敗れることが決まっているためか、それともこれまでの流れか、最後もやはり失敗して30対27でウルグアイの勝利。
釜石での一戦は、今大会初の「番狂わせ」となった。
観戦を取り巻く状況も“一生に一度”だ
試合後、スタジアム出口周辺には青っぽい公式ユニフォームを着たボランティアスタッフが一列に並んで、「次は10月13日に会いましょう」と観戦客とハイタッチを繰り返す。体操服姿の小学生も喜んで手をあげる。
ボランティアスタッフのなかには、W杯の試合が無事行われたことに感極まって涙が止まらず、泣き笑いでハイタッチしている人もいた。
人口3万3000人の街に、1万4000人の観衆が押し寄せ、運営関係者を含めたら1万6000人はゆうに超える人が一カ所に集まったので、釜石の街に宿泊する場所は見当たらない。三陸海岸沿いにも大きな町はなく、多くの客は新幹線のある内陸部へ脱出する必要に迫られている。
鵜住居から新幹線駅まで有料で送ってくれる公式送迎バスに急いで乗った。
道路が混んでいるわけでも、ゆっくり走っているわけでもないのに、いつまでも深い山の中から抜け出せない。
到着予定と表記された時刻までに着く気配はなく、バスの車内では、新幹線の指定券を取ったのに間に合わない、と嘆く声がそこかしこから聞こえてくる。筆者も同様に間に合わない。多分、案内時の表記を間違ってしまったのだろう。
これでW杯の観戦は3試合目。観戦を取り巻く色んな状況も“一生に一度”と割り切れる自信がつきつつある。これは、釜石でのW杯開催を懸命に支えた人たちや、観戦していた子どもたちの笑顔に触れられたからに違いない。(田山勇一)
・勝つために何をすべきか~新日鉄釜石の「やる気」ラグビー(1986年、松尾雄治、講談社文庫)
・鉄鋼王国の崩壊~ルポルタージュ・新日鉄釜石(1987年、鎌田慧、河出書房新社)
・さんてつ~日本鉄道旅行地図帳 三陸鉄道 大震災の記録(2012年、吉本浩二、新潮社)
・遺体~震災、津波の果てに(2014年、石井光太、新潮文庫)
・釜石の夢 被災地でワールドカップを(2015年、大友信彦、講談社文庫)
・釜石の奇跡 どんな防災教育が子どもの“いのち”を救えるのか?(2015年、NHKスペシャル取材班、イースト・プレス)
【関連記事】
・<ラグビーW杯レポ2>Jリーグ時と全く違う日産スタジアムの変化に驚く(2019年9月24日、日産スタジアム開催時の少し残念だった飲食環境について)
・<ラグビーW杯レポート>新横浜・小机が“異世界”のように感じた2日間(2019年9月24日、街や試合の様子についてのレポート)
【参考リンク】