今回は港北区の自然と歴史が凝縮された新吉田を歩きました。区の歴史や文化、現在の見どころを歩く連載「【わがまち港北番外編】こうほく歴史まち歩き」の第12回は、新吉田町と新吉田東からなる「新吉田」を巡り、長い歴史と緑深い丘陵の自然を紹介します。
港北区内を12の地区に分け、地域の歴史や名所・旧跡、名物や新たな街の動きを紹介するというコンセプトの本連載の執筆は、歴史エッセー『わがまち港北2』(2014年5月)と『わがまち港北3』(2020年11月)の共同執筆者としても知られる林宏美さん(公益財団法人大倉精神文化研究所研究員)が担当。
今回は「新吉田地区」と、主に早渕川(法律上は「早淵川」の表記)沿いに位置する「新吉田あすなろ地区」を巡りました。なお、両地区は各自治会・町内会の独立によって2つの地区に分かれたため、住所の「新吉田町」と「新吉田東」ごとに分かれているわけではありません。
(※)特記のない限り、本連載の写真は筆者・林宏美さんによる2022年1月26日の撮影です
(※)本連載は「新横浜新聞~しんよこ新聞」「横浜日吉新聞」の共通記事です
吉田村→新田村を経て横浜市へ編入
連載第12回目は「新吉田地区」と「新吉田あすなろ地区」です。元は1つだった両地区ですので、今回はまとめてご紹介したいと思います。
新吉田町は古くは吉田村と呼ばれていましたが、1889(明治22)年、新羽村・高田村と合併して「新田(にった)村」となりました。
その後、1939(昭和14)年に横浜市へ編入された際、新田村は再び3つの地域に分かれ、新羽町・高田町・新吉田町となります。
吉田は元々「葭田」と書きましたが、「葭」の字は「ヨシ」の他に「アシ」の読みがあり、「悪し」に通じることから、縁起のいい「吉」の字を用いるようになったとの説があります。
また、吉田町ではなく「新吉田町」となったのは、横浜市中区にある吉田町と区別するためです。
そのほか、地区の歴史・概要は、シリーズわがまち港北第199回「新吉田・新吉田あすなろ地区~地域の成り立ち、その7」も合わせてご覧下さい。
駅は無いが周辺に綱島や高田など4駅
本連載の散策は駅からスタートすることが多いのですが、今回は地区内に駅がありません。
選択肢としては、新吉田町や新吉田東にアクセスできる東急東横線「綱島駅」をはじめ、市営地下鉄ブルーライン「新羽駅」、市営地下鉄グリーンライン「高田駅」または「東山田駅(都筑区)」の4駅のいずれかになります。
今回は綱島駅からスタートしましょう。
地域の歴史を語る「さいかち弁財天」
綱島駅西口から子母口綱島線を高田方面へ進み、早渕川に出て「三歩野橋」を渡ります。そのまま「グリーンサラウンドシティ」(綱島上町)のバス通りを直進し、さらに西へ進んでいくと、新吉田東7丁目で「安塚弁財天」と書かれたピンク色の幟(のぼり)が目に止まります。
柵に囲われたこの一画には、幟に名前の見える「安塚弁財天」の小さな祠(ほこら)を含む5つの石造物が置かれていました。
新吉田あすなろ連合町内会による紹介動画「ちいさいけど、がんばる!」では、この場所は「さいかち弁財天」と呼ばれ、地域の大事な場所の1つに挙げられています。
動画によれば、この場所は「新吉田排水ポンプ場」の跡地で、このあたりが鶴見川と早渕川の合流点に位置し、洪水の被害が多かったことから堤防の守護神として後世に伝える目的で1981(昭和56)年6月に造られたそうです。
この動画は「港北映像ライブラリ」で公開されていますので、ぜひご覧下さい。
創立から半世紀の新吉田小学校
弁財天から北西方面に5分程歩くと、2021年に創立50周年を迎えた「新吉田小学校」(新吉田東6)があります。
校舎には、50周年を記念して2003(平成15)年に誕生したキャラクター、「しんよしだくん」の大きな壁画が描かれています。
また、創立50年に際して、紙芝居『新吉田小ものがたり~わたしたちの50年』も制作されました。こちらも上演動画が港北映像ライブラリで公開されています。筆者は同校の卒業生ではありませんが、紙芝居に描かれた学校生活や各年代の出来事にその時々の自分が重ねられ、何だか懐かしい気持ちになりました。
早渕川に架かる多くの橋
新吉田小から北東方面に10分弱のところに、開校75周年を迎えた「新田中学校」(新吉田東5)があります。中学校からさらに東へ歩いていくと、早渕川に架かる吉田橋があり、対岸は綱島西です。
今回は橋は渡らず、早渕川を川上の方へ進むと、峰大橋、高田橋があり、その次に高田地区の回でも紹介した「高吉橋」(宮内新横浜線)があります。
石仏に癒やされる「浄泉寺」
高吉橋から南西方面へ歩き、スーパーの「オーケー新吉田店」(新吉田東3)の手前で左に曲がって進んでいくと「浄泉寺」(同)の入口が見えてきました。
浄泉寺は、清冷山法界院という涼し気な山号を持つ浄土宗寺院で、小机にある泉谷寺(せんごくじ)の末寺にあたります。
境内には各所に石仏様が置かれ、その表情や仕草のユニークさに思わず顔が綻びます。
著名な火渡り修行の「圓應寺」
浄泉寺から南西に数分歩くと、「海照山圓應寺」(円応寺=えんのうじ、新吉田町)があります。こちらは高野山真言宗の寺院で、鳥山町にある三会寺(さんねじ)の末寺です。
毎年10月の体育の日(現在はスポーツの日)に行われる護摩火渡り修業には多くの人が訪れ、昨年(2021年)には「圓應寺柴燈護摩火渡修法会」として、横浜市無形民俗文化財保護団体に認定されました。当寺は「旧小机領三十三所観音霊場」の13番札所でもあります。
雷を祀り雨を降らせた「若雷神社」
圓應寺から今度は「若雷(わからい)神社」(新吉田町)へ向かいます。南南東方面へ12、3分というところですが、丘の上り下りには、少し気合が必要でした。
若雷神社には、鎌倉幕府滅亡の立役者として知られる武将の新田義貞が、鎌倉への挙兵の際に旱魃(かんばつ)に苦しみ、雷様を祀った当神社で雨乞いをしたところ、神雨が降ったという伝承があります。
また、若雷神社は、1935(昭和10)年に横浜貿易新報(『神奈川新聞』の前身)による「神奈川県名勝・史蹟四十五佳選」に選ばれた場所で、その記念碑が今も参道の入口に置かれており、宮内新横浜線から遠目ながらも確認することができます。
雨乞いの話、四十五佳撰の詳しい話は、シリーズわがまち港北第161回「あたかも闇夜のごとし~若雷神社縁起」をご覧ください。
また、境内の手水鉢や狛犬などには、願主として「山本海苔店」「山本徳治郎」の刻字があります。これは山本海苔店(東京・日本橋)創業者の初代山本徳治郎と二代目徳治郎が(社長は代々徳治郎を襲名)が吉田村の出身という縁に拠るようです。詳しいことは未調査ですが、思わぬ所でで広く知られる老舗の名が出てきたことに驚きました。
「神隠」で迷えば抜け出せない?
若雷神社が鎮座する丘陵を宮之原といいます。その谷戸づたいに南西へ進んでいくと、その名を冠した「宮の原第一公園」があります。
そこから北西方面へ道なりにしばらく歩くと「神隠(かみがくし)公園」(新吉田町)、その先には「新吉田地域ケアプラザ」(同)が位置しています。
神隠公園、名前だけ聞くと少々怖い感じがしますが、ごく普通の公園です。「神隠」は周辺の地名で、その由来は、迷い込んだら抜け出せない雑木林だったから、他所から移り住んだ人が隠れて農業をするのに適した場所だったからなど、他にも諸説があります。
公園の遊具は少なめで、敷地も広くはありませんが、冬の散策の休憩にちょうどいいベンチが並んでいましたので、筆者もここで一息つきました。
犬の訓練センターと第三京浜道路
神隠公園から北西へ2、3分歩くと、日本盲導犬協会の神奈川訓練センターがあります。また、新吉田には民間の警察犬訓練学校も置かれています(いずれも新吉田町)。
今後、盲導犬や警察犬を目にするたび、「新吉田で訓練を積んだ子では……」と思ってしまいそうです。
その先、北東方面へと進んでいくと、「第三京浜道路」の入口があり、その先には都筑料金所(都筑インターチェンジ)があります。最近、息子と毎日トミカで遊んでいるせいか、さまざまな車が料金所を通っていく様子をフェンス越しに間近で見られることに、思わず気持ちが昂ります。
筆者は大倉山記念館に向かう途中で東横線を眺めている親子をよく目にしますが、車好きの子であれば、この場所で行き交う車をずっと眺めていられそうです。
新吉田「杉山神社」はかなり重要か
料金所の脇を通り過ぎ、ここから「杉山神社」(吉田杉山神社=新吉田町)へと向かいます。圓應寺を出て以降、丘の上り下りの多さに心が折れそうになります。
北東方面へ10分ちょっと歩くと、杉山神社に着きましたが、社殿へ続く階段を目にして、再び気合を入れ直します。
鶴見川周辺に数十社が鎮座する杉山神社ですが、新吉田の杉山神社はその中で「式内社(しきないしゃ)」の有力候補の1つとされています。
式内社とは、平安時代中期に編纂された法典、『延喜式』に記載されている神社のことで、古くから国にとって重要な神社の1つであったことを表します。
さて、式内社か否かはさておき、地域の総鎮守として住民の信仰を集めてきた杉山神社ですが、社殿は木々に囲まれているため、目にも耳にも現代的な刺激がほぼ入ってきません。
辺りを見回すと、ここだけ時の流れが止まっているような、非日常的な雰囲気がありました。
今回の新吉田のほか、樽町地区や新羽地区でも登場した杉山神社、書籍『わがまち港北3』では、一覧表など詳細な資料を掲載しています。ご興味のある方はぜひ本書をご覧下さい。
平安の武将・景政を祀った御霊堂
杉山神社から北へ進んでいくと、かつて鎌倉権五郎景政を祀っていた「御霊堂跡(ごりょうどうあと)」(新吉田町)があります。
景政は平安時代後期の戦乱、後三年の役(1083~1087年)に従軍し、右目を射貫かれながらも奮闘した逸話を残す武将です。影政には新吉田で亡くなったという伝承があり、正福寺の住職が景政持仏の十一面観音を祀り、菩提を弔ったのが御霊堂だそうです。
現在は標柱1本がそれを語るのみですが、「正福寺(しょうふくじ)」(新吉田町)がこの近くですので、そちらにも行ってみましょう。
今年は12年に1度の開帳「正福寺」
御霊堂跡から北西に2、3分歩くと「正福寺」(新吉田町)に到着します。正福寺は天台宗の寺院で、山号は星宿山千手院。星宿山とは何とも美しい山号です。
正福寺は、「都筑橘樹(つづきたちばな)十二薬師霊場」の3番札所です。今年は寅年ですので12年に1度の御開帳の年です。4月1日から20日の期間で御開帳が予定されていますが、詳しくは都筑橘樹十二薬師の公式ホームページをご確認下さい。
なお、正福寺は御霊堂として、「旧小机領三十三所観音霊場」の14番札所にもなっています。
札所に関しては、シリーズわがまち港北第114回「12年に一度の霊場巡り~その3」(旧小机領三十三所観音霊場)、第136回「12年に一度の霊場巡り~その5」(都筑橘樹十二薬師霊場)で紹介しています。
正福寺から細い坂道を西に進んでいくと、第三京浜道路の高架があります。
ここが港北区と都筑区の区境になっています。高架下を抜けて右へ曲がり、日吉元石川線に突き当たったところで西に歩いていくと、横浜市営地下鉄グリーンラインの東山田駅に着きました。ここで今回の散策を終了します。
高低差が多く広く多彩な新吉田
港北映像ライブラリでは、新吉田連合町内会の紹介動画「新吉田の謎」(こちら)公開しています。
あたかもホラー映画のようなタイトルとその書体に当初は違和感がありましたが、いざ散策してみると「謎」というのは言い得て妙だという印象を受けました。
新吉田の長い歴史と緑深い丘陵の自然が、そんな雰囲気を醸成しているのかも知れません。
散策最後は都筑区まで足を延ばしてしまいました。今回は高低差が多く、広範囲に及びましたので、今までで一番大変だったかも知れません。
もし実際に歩いてみようと思う方は、硬い靴と重い荷物は控えた方が良さそうです。ただ地区東側の新吉田東や宮内新横浜線周辺は「まち歩き」、地区西側の自然豊かな丘は「ハイキング」といった趣で、その両方を楽しんだ充実感でいっぱいの散策となりました。
次回は港北区の北から南へと一気に移動し、「城郷(しろさと)地区」(小机・鳥山・岸根)を歩きます。
林宏美(はやしひろみ):1982年4月神奈川県小田原市生まれ。中央大学大学院博士前期課程修了。2009年4月大倉精神文化研究所非常勤職員、2011年7月常勤。2014年4月同研究所研究員、2021年4月から図書館運営部長(研究員兼任)。勤務する研究所の創立者・大倉邦彦氏と誕生日がピッタリ100年違いという奇跡の巡りあわせにより、仕事に運命を感じている。小田原市在住(2011年から2014年まで大倉山に在住)。趣味はカラオケとまち歩き。一児の母。子育ての合間にSNSで地域情報をチェックするのが日々の楽しみ。冬の澄んだ青空の下で見る大倉山記念館と梅の時期の大倉山の賑わいが好き。
【関連記事】
・【歴史まち歩き】長い歴史と篤い信仰「新羽」、丘陵の史跡を歩く(2022年1月21日)
・【歴史まち歩き】平安期に地名現れる「港北区高田」、高台の風景と武将伝説(2021年10月12日)
【参考リンク】
・書籍『わがまち港北』公式サイト(『わがまち港北』出版グループ)
・紹介映像:新吉田連合町内会「新吉田の謎」(YouTube、3分36秒)
・紹介映像:新吉田あすなろ連合町内会「ちいさいけど、がんばる!」(YouTube、4分3秒)