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今回は都筑区や川崎市高津区に接した港北区の北西部、高田を巡ります――。区の歴史や文化、現在の見どころを歩く連載「【わがまち港北番外編】こうほく歴史まち歩き」の第8回は、地下鉄グリーンライン・高田(たかた)駅の周辺に広がる「高田地区」を歩きます。平安期から歩みが続く歴史に触れました。

高田地区の場所、地下鉄グリーンラインで日吉駅、バスでは綱島駅と結ばれている

港北区内を12の地区に分け、地域の歴史や名所・旧跡、名物や新たな街の動きを紹介するというコンセプトの本連載の執筆は、歴史エッセー『わがまち港北2』(2014年5月)と『わがまち港北3』(2020年11月)の共同執筆者としても知られる林宏美さん(公益財団法人大倉精神文化研究所研究員)が担当。

今回歩く高田地区は、鉄道で日吉やセンター北・南、バスでは綱島駅、自動車交通では新吉田や新羽、新横浜などへアクセスが良好で、ここ10年超ほどのうちに交通環境が急速に整いつつあるエリアです。

)特記のない限り、本連載の写真は筆者・林宏美さんによる2021年9月の撮影です
)本連載は「新横浜新聞~しんよこ新聞」と「横浜日吉新聞」の共通記事です

平安期の百科事典に記された高田

筆者の働く大倉山に響いていた賑やかな蝉の鳴き声は、いつの間にか秋の虫の音に変わり、散策にもちょうどよい季節となりました。

さて、連載第8回は「高田地区」です。前回(第7回)の港北区最南部の「篠原地区」から一気に北へ移動します。

白坂付近の高台から見た高田東の街並み、わずかに畑も残る(2021年10月、編集部)

高田地区は、区の北西部にあり、西は都筑区、北は川崎市と区境・市境に位置しています。以前は全域が高田町でしたが、1998(平成10)年から1999年(平成11)年にかけて住居表示が実際され、高田町、高田東、高田西の3地域となりました。

高田の名は、平安時代に作られた百科事典『倭名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)にも記された、長い歴史を持つ地域です。例によって地名の由来や地域の特徴は、シリーズ「わがまち港北」第202回「高田地区~地域の成り立ち、その7」にまとめられています。そちらも合わせてご覧ください。

一番深い位置に置かれた高田駅

2008(平成20)年3月30日、横浜市営地下鉄「グリーンライン」の中山駅~センター南・北~日吉駅間(13.1キロ)の開通とともに開業した高田駅、デザインテーマは「したしみのひろば」、ステーションカラーは元気・楽しさをイメージした黄色(黄水仙)だそうです。

横浜市営地下鉄グリーンライン高田駅

駅のホームは、日吉方面行きと中山方面行きホームが別の階になっており、中山方面行きホームは、グリーンライン全10駅の中で一番深い位置にあります。

高田駅の日吉方面行ホームは地下3階、センター北・中山方面行ホームは地下4階にある(2020年9月、編集部)

高田駅のホームの話は以前、横浜市交通局のキッズページに掲載されていました。そちらは現在、残念ながら閲覧出来なくなっていますが、その内容を横浜日吉新聞で紹介していますので、同記事をご覧ください。

SFさながらの由緒「高田天満宮」

さて、高田駅を出発して、まずは高田天満宮を目指して歩いていきます。

Googleマップを確認しつつ、駅から北北西方面に高台を上っていくと、参道へ続く階段がありました。その角度と段数に一瞬尻込みしましたが、覚悟を決めて上りました。

階段を上り切り、生い茂る木の枝の合間から港北ニュータウンを眺めつつ息を整えて、社殿へ向かいます。ちなみに階段は鳥居の手前部分から数えて95段でした。なお、上り下りの数字が合わず、一致するまでに3往復を費やしたことを付記します。

高田天満宮の階段

菅丞相霊(かんしょうじょうのれい=菅原道真)を祭神とする高田天満宮は、1325(正中2)年頃に領主・桃井(もものい)播磨守(はりまのかみ)直常(ただつね)が社殿を建立したのが始まりで、詳細はシリーズ「わがまち港北」の第145回「空から希望の光が…~高田の天満宮」で紹介しています。

由緒書に見るその経緯は、突如現れた光物に乱れ飛ぶ電光、そこへ蛇の姿で衆生を救うために表れた観音様と、SFドラマさながらの話です。興味のある方はご一読下さい。桃井播磨守直常については、また後ほど触れます。

高田天満宮の社殿

賽銭箱に貼付された例大祭の告知

境内には、10月25日に行われる例大祭のお知らせが貼ってありました。これまでお祭り中止の貼り紙ばかり見てきましたので、開催されることが嬉しく感じました。無事その日を迎えられることを願い、天満宮を後にします。

七福神・霊場めぐりの「興禅寺」

高田天満宮の社殿右側の道を抜け、今度はその北にある興禅寺へ向かいます。

円瀧山光明院興禅寺は仁寿3(853)年、慈覚大師円仁(えんにん)の開山と伝えらる古刹です。「横浜七福神」の福禄寿を祀っており、「都筑橘樹(つづきたちばな)酉歳(とりどし)地蔵菩薩(じぞうぼさつ)霊場」の10番札所、寅年(とらどし)の4月に御開帳がある「稲毛(いなげ)七薬師霊場」の1つでもあります。来年は寅年です。来年こそは安心して札所巡りが出来るとよいのですが。

区内の霊場については、シリーズわがまち港北(興禅寺は第135回第220回)で紹介しています。札所巡りを考えている方は、ぜひご覧下さい。

興禅寺の石造物の数々を撮影しつつ本堂に向かうと、柱に名木古木の一覧が掲示されているのが目に止まりました。

興禅寺本堂

横浜市の古木保存事業は、「古くから町の象徴として親しまれ、故事来歴などのある樹木を指定することで、潤いのある市民生活の確保と、都市の美観風致を維持するために昭和48(1973)年度からスタート」(市環境創造局)したという事業です。

本堂の柱に貼付された名木古木一覧

港北区では18区最多の126本が指定を受けており、興禅寺内に7本があります。その中には事業開始当初に指定を受けたクスノキや、樹齢530年という「キササゲ」などがあります。

また、1984(昭和59)年に指定を受けた樹齢130年のクスノキは、1895(明治28)年に「日清戦役戦勝記念」として、知事から県下の小学校に配られた種を、高田小学校の前身にあたる高田学校の子どもたちが植えたものだそうです(『創立125周年記念誌「たかたの丘」』1999年)。「町の象徴」「故事来歴のある樹木」にずばり当てはまる名木と言えそうです。

明治7年からの歴史持つ「高田小」

興禅寺の西には高田小学校、その奥には高田中学校があります。1874(明治7)年8月1日に高田学舎の名で開校した高田小学校の歴史は、シリーズ「わがまち港北」第146回「工場から学校へ~安立電機と高田小学校・新田中学校」で紹介しています。

写真の左奥が高田中、右が高田小(2017年1月、編集部)

高田中学校は、今年9月、横浜市内初の試みとなる“バーチャル修学旅行”の実施が話題となりました。実際に現地への訪問が叶わなかったことは残念ですが、最新の技術と多くの人の協力によって高田が京都になった一日は、生徒たちにとって忘れ得ない思い出となったでしょう。

「桃井直常塚の跡」の碑と最期の地

高田小学校の西門のちょうど向かい、小学校と中学校の間に桃井播磨守直常の塚跡の碑があります。高田天満宮の所でも名前を挙げた桃井直常(もものいただつね)は、南北朝時代の軍記物語『太平記』にも名前が登場する武将です。

江戸時代後期、今から200年程前に編纂された地誌『新編武蔵風土記稿』によれば、天神社(高田天満宮)の西、「天神の原」という所に、直常の館跡があったと伝えられています

「桃井直常塚の跡」の碑。カラスに見張られ、恐る恐るの撮影。左手に見えるのは高田中学校の体育館

「天神の原」は高田小学校の辺りとされており、この塚跡の場所とも一致しますが、桃井直常の最期はよくわかっておらず、墓所については高田のほか、群馬県、富山県、奈良県にも伝承が残されています。

「宮内新横浜線」と高吉橋の開通

高田の丘を下って駅の方へ戻り、最後は早渕川に架かる「高吉(たかよし)橋」へ向かいます。

高吉橋は、高田駅前を通る県道102号荏田綱島線(日吉元石川線)と交差する都市計画道路「宮内新横浜線」の一部に含まれます。

宮内新横浜線の新吉田高田地区間(高田駅入口交差点~新吉田南交差点、約1.3キロ)は、昨年の暫定開通期間を経て、今年3月に全面開通したばかりです。工事の状況、全面開通までの経過については、横浜日吉新聞の記事をご覧下さい。

高吉橋から高田方面を望む。橋を下りた先は高田駅前

まだ新しさのある「高吉橋」の銘板

早渕川の対岸に位置する新吉田と高田地区をつなぐ高吉橋は、昨年2020年3月の竣工で、早渕川の港北区部分に架かる9つ目の橋になります。

高田中と新田中の生徒が揮毫した橋の銘板はもちろん、欄干も舗装もまだまだ新しさを感じられ、歩く足取りも何だか軽やかになります。交通の利便性向上は、グリーンライン開業以来加速する高田地区の発展をさらに後押ししていくことになるでしょう。

住宅地の合間から見える景色の良さ

高田地区への来訪は約10年ぶりでした。個人的には高台と低地をつなぐ手段に、坂道ではなく階段が多いこと、高台の住宅地の合間から見える景色の良さがとても印象的でした。

高田西3丁目の階段

高田西3丁目の眺め

1973(昭和48)年に作られた「高田音頭」では、天満宮を歌った4番に、「真向かう峰は新雪の富士 冬だ冬だよみんな来い」の歌詞があります。冬には再び高田天満宮の階段を上り、その景色を見てみたいと思います。

高田天満宮の参道から見えた富士山(2017年1月、編集部)

次回は大倉山地区を歩きます。

<執筆者>
林宏美(はやしひろみ):1982年4月神奈川県小田原市生まれ。中央大学大学院博士前期課程修了。2009年4月大倉精神文化研究所非常勤職員、2011年7月常勤。2014年4月同研究所研究員、2021年4月から図書館運営部長(研究員兼任)。勤務する研究所の創立者・大倉邦彦氏と誕生日がピッタリ100年違いという奇跡の巡りあわせにより、仕事に運命を感じている。小田原市在住(2011年から2014年まで大倉山に在住)。趣味はカラオケとまち歩き。一児の母。子育ての合間にSNSで地域情報をチェックするのが日々の楽しみ。冬の澄んだ青空の下で見る大倉山記念館と梅の時期の大倉山の賑わいが好き。

【関連記事】

【歴史まち歩き】知事邸跡と緑の丘、茂吉の名残、ドラマロケ地「篠原」を巡る(2021年9月6日)

【わがまち港北番外編】こうほく歴史まち歩き~第3回:菊名(前編)ー新横浜周辺ー(2021年3月10日)

【参考リンク】

書籍『わがまち港北』公式サイト(『わがまち港北』出版グループ)

高田音頭の紹介(高田町連合町内会による動画と歌詞)