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PDF形式にて一般公開されている1971(昭和46)年11月に発行された小冊子「港北 都市化の波の中で」

人口急増で公共インフラ整備が追い付かない――。約半世紀前の港北区役所の悲鳴が聞こえてくるかのような資料がインターネット上に公開されていました。1971(昭和46)年11月に区が発行した「港北 都市化の波の中で」という小冊子には、道路や生活環境の不十分さなど、現在まで続く課題が50年近く前から横たわっており、根本的な解決が難しいことを浮き彫りにしています。

この小冊子は横浜市中央図書館がスキャンし、「横浜市立図書館デジタルアーカイブ」としてPDF形式にて一般公開されているもので、ダウンロードすれば誰でも閲覧することが可能です。

同冊子では当時の区長が下記のような文章を寄せています。

  • 昭和44年当時港北区は34万をこえる人口となり、同年10月に現在の港北区と緑区とに分区をすることになりました。その後今日にいたるまで人口増大は続いております。そのため山林、田畑は年々減少し、緑も日々失われているといえます。道路、下水をはじめとしての公共施設の整備のおくれまたは不足、これからの都市農業のありかた、交通問題、老人問題等いわゆる都市型人口になりつつある港北区は、多くの問題を抱えているといえます。
    (※昭和44年=1969年)

冒頭のあいさつ文からして、自らの区の課題を述べなければならないところに港北区の置かれた環境の厳しさが見てとれます。

小冊子が発行された1971(昭和46)年10月1日現在の区内人口は23万3807人で、1960(昭和35)年から10年超で2.4倍にも増大したといいます。この頃の港北区は現在の都筑区区域を含んでいましたが、まだ港北ニュータウンが完成する前でした。

鉄道やバスの利用客数の推移(「港北 都市化の波の中で」より)

人口急増の激しさを物語る数値として、鉄道やバスの利用客数の推移があげられています。

1960(昭和35)年度を100とすると、東急バスの乗客数は5.1倍、市営バスは2.6倍、臨港バスも2.1倍に増えており、鉄道駅でも菊名や綱島、大倉山で軒並み2倍以上の増加でした。

さらにすごさを感じさせるのが公立小中学校の児童・生徒数です。

■ 1971(昭和46)年5月1日時点の児童数

  • 日吉台小学校(日吉本町1):1616人
  • 新田小学校(新吉田町3226):1606人
  • 下田小学校(下田町4):1565人
  • 綱島小学校(綱島西3):1402人
  • 日吉南小学校(日吉本町4):1296人
  • 大綱小学校(大倉山4):1293人
  • 菊名小学校(菊名5):1165人
  • 大曽根小学校(大曽根2):1122人
  • 高田小学校(高田町1774):982人
  • 城郷小学校(鳥山町814):977人

港北区内の小中学校の逼迫ぶりを述べているページ(同小冊子より)

現在の港北区域にあった14小学校と1分校(大曽根小師岡分校)のうち、8校で児童数が1000人をゆうに超え、2校が900人台後半で、“マンモス校は当たり前”という状況。区ではそれまでの10年間に8校を相次いで新設したにもかかわらずこの数字です。

当時区でワースト1の狭さ(現在は矢上小学校に次ぎワースト2位)だったとみられる日吉台小が区内最大の児童数となっている点にも、行政が公共インフラ整備に追い付けていないことがうかがえます。

一方、当時は区域に4校しかなかった中学校も、似た状況でした。

  • 大綱中学校(大倉山3):1886人
  • 日吉台中学校(日吉本町4):1250人
  • 城郷中学校(小机町325):974人
  • 新田中学校(新吉田東5):783人

大綱中はそれほど狭くはないとはいえ、1900人に近い生徒を受け入れざるを得なかった当時の教職員の苦労がしのばれます。

小冊子には、当時の区内小中学校でのプレハブによる校舎率は小学校で10%、中学校で16%だったと記されていました。

プレハブ校舎が建てられて狭くなった運動場へ出てみたら、今度は大綱中や日吉南小では「光化学スモッグ」にさいなまれ、日吉南小では目の痛み200人、のどの刺激200人という被害が発生。

  • 光化学スモッグの原因は、工場および自動車の排気ガスが原因とされているが、被害発生地の周辺には、中原街道(東京丸子横浜線=現綱島街道)、磯子鶴見線、京浜第3道路という交通量のはげしい道路が通っているのである

地域別の工場数の推移(同小冊子より)

光化学スモッグの発生に影響を与えるといわれた工場も10年間で急増しており、日吉町では763%増、新羽町では452%増、南綱島町は344%増だったといいます。

工場だけでなく、当時は廉価だった農地を買い取り、急激な宅地開発も続々と行われていました。

  • これらの宅地開発は安い土地を求めての無秩序なものであり、虫食い状の乱開発的性格が強く、都市計画上の隘路(あいろ=難所)となっている。特に問題なのは、道路・下水道・学校・公園等の公共的な都市施設の整備が追いつかず、乱開発のため公共投資の非効率を招いている

近年、横浜市ではマンションの開発事業者に高層建物の建設を認める代わりに、公園や道路、学校などの公共用地に供出させることを選ぶ方針をとることが多いのは、1960年代後半から70年代の苦い経験がもとになっているのかもしれません。

そして、港北区が抱える根本的な問題点も、この小冊子では素直に吐き出されています。

  • 昭和41年度の港北区市税収入の本市に占める割合は4.8%(人口は9%)であったが、45年には6.3%(人口9.9%)とわずかながら上昇しているものの、人口の割合と市税収入とを比較するとかなり低い率となっている。これは港北区が住宅地としての性格が強く、人口の割合に事業所(特に大企業)が少いために法人関係の税収が少額となっているためである。
  • 横浜市の44年度一般会才出(※歳出)額で、下水道、道路、教育関係の費用は全体の23%であったが、港北区の45年度の下水道整備、道路整備および学校建設等の費用は66.1%の多きを占め、これだけで港北区の市税収入の実に1.7倍も消費されているのである。このことは港北区を含め郊外区については人口増加とともにこのような財政需要が多くなり、市財政を次第に逼迫状態に追い込む要因となっている

写真説明にも当時の区のやり切れなさがこもっているかのよう(同小冊子より)

税収の多い法人税は本社のある東京都心に持っていかれ、そこで働く人は地価の高い都心を避けて、みな(当時は土地が安価で都心にも近い)港北区へ流れ込んでくるので、インフラ整備の金ばかりかかってどうしようもない……、そんな思いがにじみ出てくるかのような一文です。

当時、日吉本町の周辺に大量の社員寮が作られ、巨大な公営団地が複数設けられたことからも、都心で働く人を住まわせるのに港北区が“都合の良い土地”であったことがうかがえます。

今に続く生活道路の未整備や図書館などの公共施設不足は、港北区や横浜市(特に港北区と同様に人口急増中の鶴見区など)が置かれた「会社は東京、住むのは都心に近い横浜」といった構造的な問題を解決しない限り、結局は未解決のまま残り続ける気がしてなりません。

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【参考リンク】

「港北 都市化の波の中で」の紹介ページ(1971年港北区発行、PDFファイルダウンロードはこちら