新横浜・菊名・大倉山・新羽など港北区南部の地域情報サイト

【東横線100周年フォーラムレポート(5)】先月(2025年)8月19日に慶應義塾大学日吉キャンパス内協生館で行われた「東急東横線100周年フォーラム~沿線5駅の“未来を語る”」(一般社団法人地域インターネット新聞社主催)について、今回は公益財団法人大倉精神文化研究所(大倉山2)で図書館運営部長・研究員をつとめる林宏美さんの講演を紹介します。

3つの駅とまちの歴史をたどる

<司会(広瀬未来)>

それでは前半、最後の登壇者です。林裕美さんにお願いいたしましょう。

林さんは神奈川県小田原市の生まれ、中央大学の大学院を卒業し、2009(平成21)年に大倉山にある公益財団法人「大倉精神文化研究所」に入職されています。

林さんは「わがまち港北」(書籍)シリーズの執筆もされておりまして、今回は大倉山、菊名、妙蓮寺と3駅の歴史をご説明してくださいます。よろしくお願いいたします。

大倉精神文化研究所 図書館運営部長・研究員・林宏美さん

みなさんこんにちは。大倉精神文化研究所の林と申します。今日は大倉山・菊名・妙蓮寺の「3つの駅とまちの歴史をたどる」というタイトルで、お話をさせていただきます。

私のことは司会の広瀬さんから紹介いただきましたので、ここでは私の働く大倉精神文化研究所について簡単に紹介させていただきます。

研究所は大倉山の「大倉山記念館」の中にあります。研究所では心豊かな暮らしと社会を目指して、精神文化の研究と地域の歴史や文化の研究・発信を行っています。

記念館内には、どなたも自由に利用いただける研究所の附属図書館がありますので、ご興味ありましたらぜひ立ち寄りいただければと思います。

早速本題に入ります。今の港北区には東急東横線をはじめ、新幹線や地下鉄といった鉄道、それからバスなど、さまざまな交通機関があります。こうした交通の発達は地域の発展と大きく関係しています。

先ほど、綱島の古い写真が紹介されましたが、昔の港北区は畑や田んぼが広がる農村地帯でした。東横線が通ったことで駅の周辺に街がつくられて、今では横浜市内18区で最大の人口を持つ「区」となっています。

昔はどこも同じような風景が広がる港北区でしたが、今は大倉山・菊名・妙蓮寺と隣り合う3つの駅と街には違いがあります。この違いが街の個性だと言えるのではないでしょうか。

個性は、ほかとは違う特徴、その町だけの魅力、「良いところ」とも言い換えられます。この個性は、町を歩んだ歴史の中で少しずつつくられてきたものです。

それでは、3つの駅と街にどんな歴史があって、東急東横線が通ったことで、どのように変わっていったのかを話していきます。

【大倉山】記念館と梅をシンボルに

大倉山・菊名・妙蓮寺の3駅は、いずれも東急東横線の開業時である1926(大正15)年2月14日に開業しました。綱島駅とは鶴見川の対岸にあって、横浜方面に並ぶ3駅になります。

最初は大倉山駅のお話です。

昔の大倉山は「太尾」という地名で呼ばれていました。今、大倉山駅の周辺は住所も「大倉山」ですが、少し前までは「太尾町」でした太尾町は、2007年11月の大倉山1~3丁目を皮切りに2009年10月までに大倉山1~7丁目という住居表示に変更)


太尾の地名は太尾小学校(大倉山7)や太尾新道(大倉山6・7丁目など鶴見川付近付近)、太尾公園(大倉山7)などの名前に生きています。

その由来は、師岡町のほうから鶴見川の手前まで続いている丘が動物の太い尻尾のような形に見えたから、というふうに言われます。

師岡~大倉山~大曽根周辺の地形(地形図画像:国土地理院Webサイト)(映写スライドより)

写真のように鶴見川に突き出た部分が動物の尻尾のような形になっていることから、大倉山のあたりは太尾と呼ばれていました。

このあたりは土地が低くなっていて、すぐ近くに鶴見川が流れています。昔の鶴見川は大雨が降ると水がよく溢れたので「暴れ川」と呼ばれていました。田畑が川の水に浸かってしまうと農作物が採れなくなってしまいますので、大倉山周辺は大変苦労の多い地域でした。

下の写真は1938(昭和13)年に大きな水害が起きた際、大倉山記念館(当時は大倉精神文化研究所)から撮影された写真です。

1938(昭和13)年に起きた水害時の写真(映写スライドより)

このように地域一帯がすべて水につかってしまっています。今は水害が起きないようにさまざまな対策が行われているので、1982(昭和57)年を最後に40年以上起きていませんが、昔はこのように地域全体に水が溢れてしまうことがたびたび起こりました。

そんな太尾の地にできたのが、現在の大倉山駅です。駅ができた時は、地名を由来とした「太尾」と名付けられた駅でした。下のスライドで左下に載せた「沿線案内」は1930(昭和5)年に発行されたものですが、太尾の文字を見ることができます。

大倉山の駅名となったのは1932(昭和7)年のことで、上に載せたスライド右側2枚の写真が大倉山駅における最初の駅舎の写真です。太尾駅時代には駅舎がなく、ホームだけだったと言われています。

太尾の駅名が大倉山に変わった理由が大倉精神文化研究所です。今は大倉山記念館となっているこの建物は、もともと研究所の本館として建てられたものです。

研究所を作ったのは写真にある大倉邦彦(1882~1971年、実業家・教育者)です。建設は1929(昭和4)年から始まり、研究所をつくっていた丘が、“大倉さんの研究所のある山”ということで、通称で大倉山と呼ばれるようになりました。

研究所は1930(昭和7)年4月にオープンしますが、直前の3月31日に駅名が大倉山に変わっています。これは、大倉精神文化研究所の最寄りであることがすぐわかるように、という理由でした。今では駅名に加え、住所も大倉山に変更されています。

大倉山で記念館と並ぶ名所が「梅林」です。東急は沿線で鉄道に乗る人を増やすために観光地をつくってきました。先ほど、綱島で温泉浴場や菖蒲(しょうぶ)園をつくったというお話がありましたが、大倉山では梅林でした。

梅林は東急が開発し、最初は太尾公園という名で1932(昭和7)年1月に開園したのが始まりです。今、太尾公園といえば港北水再生センター(大倉山7丁目)の屋上にある公園を思い浮かべますが、こちらが最初でした。

そして昭和の終わり1983(昭和58)年~1986(昭和61)年にかけて土地は市に売却され、1989(平成元)年に今の形で開園)横浜市の梅林として再整備され、今は大倉山公園の梅林として親しまれています。

梅林は戦前から現在に至るまで東横線沿線における梅の名所として賑わっており、毎年2月に「観梅(かんばい)会」が開かれ、今年は9万4000人が訪れたといいます。

港北区の“区の花”は「梅」ですが、これも大倉山に梅林があるためで、梅林は大倉山だけでなく区にとっても欠かせない存在と言えます。

そして大倉山を語るうえで欠かせないのが商店街です。

今では不動産の広告などで「明るくておしゃれな商店街」として紹介されている駅前の商店街ですが、昔の駅前通りには歩道がなく、道幅も狭いのに大型のバスが走ったり、第三京浜道路や港北産業道路につながるような道路であったりもしたので、交通量が多く大変危ない道でした。

転機となったのが1978(昭和53)年港北区役所が菊名から大倉山駅が最寄りとなる現在の大豆戸町に移転したことでした。

区役所の移転で人通りが今まで以上に増えましたので、安心・安全で賑わいのある商店街を目指して誕生したのが「レモンロード」と「エルム通り」と名付けられた2つの商店街です。上に載せたスライドの写真は昔と今の大倉山レモンロードを写したものです。

下のスライドは駅西側のエルム通り(新羽寄り)における昔と今の写真です。歩道ができ、電柱が無くなり、建物は大倉山記念館のデザインをコンセプトにギリシャ風の街並みの商店街になりました。

ギリシャのアテネにある「エルム通り」と姉妹提携を結び、完成した当初は「エーゲ海フェスティバル」などのイベントも行い、ギリシャをアピールしながらまちづくりを行っています。

これらを踏まえ、大倉山については“大倉山記念館と梅林をシンボルにつながる街”とまとめたいと思います。

【菊名】丘に広がる宅地と交通の要衝

続いては「菊名」の話に移ります。地名の由来ですが、次の2つの説があります。

(1)相模国三浦郡、今の三浦半島ですが、そこにあった“菊名村”から菊名の姓を持つ「菊名一族」が移り住んだから、という説が1つです。

(2)蓮勝(れんしょう)寺(菊名5丁目)の正式な名前「菊名山蓮勝寺」を由来とする説もあります。

こうした由来を持つ菊名は昔、どんな様子だったのかということですが、綱島や大倉山と同じように畑が広がる農村地帯でした。

特徴として菊名には寺社と「昔話」が多く残っています。たとえば菊名神社の手水鉢(ちょうずばち)を支える鬼の石像は「がまんさま」と呼ばれ、長い年月にわたって風雨に負けずに手水鉢を支えるという同じ仕事を続ける姿は、努力や継続の大切さを伝えていると言われています。

上のスライドにある菊名神社の写真のとなりに載せたのが、蓮勝寺の脇にある「川崎坂(綱島街道に沿った菊名5丁目の裏道)という坂の写真です。別名で「やかん坂」とも呼ばれており、これはがやかんに化けて坂を転がって通行人を驚かせたという伝承が由来です。

このようにお寺や神社、伝承が残る菊名は長い歴史のある街ということが言えるのではないでしょうか。

次は駅の話です。東急の菊名駅は東横線とJR横浜線の交わる場所につくられました。今のJR菊名駅(当時は鉄道省、その後は国鉄)ができたのは、東急の駅より半年ほど遅い1926(大正15)年9月のことでした。

上のスライドに載せた写真は、東横線90周年の時に貼られていたポスターで、写っているのが最初の菊名駅舎です。1959(昭和34)年の写真ですが、写真の右端には「港北区役所」と書かれた標柱が見えるかと思います。もともと菊名駅の近くに区役所(現在の菊名地区センター・港北図書館)がありましたので、それを示す名残りです。

東横線と横浜線の乗り換え駅として、菊名は開発が早かったので、地域の中心として港北区役所の庁舎も置かれていました。1939(昭和14)年に(神奈川区から分離する形で)港北区が誕生した際には、区の名前を「菊名区」とする案もありました。

菊名では東横線を通す際、横浜線の下をくぐるように掘って線路を通しています。そのため、大雨が降ると水が溜まって電車が通れなくなることがあり、大きな問題となっていました。

そのため、1969(昭和44)年から1972(昭和47)年まで線路の高さを上げる工事が行われ、安心して電車が走れるようになった経緯があります。上のスライドは、横浜線の線路の位置が分かる写真です。この赤い線の下を東横線が通っていましたので、いかに低い位置だったかが分かるかと思います。

菊名駅はもともと「東口」しかありませんでした。菊名で駅前といえば東口のことで、郵便局や交番、商店街も東口につくられ、バス乗場もこちら側にしかありません。

上のスライド右側の写真は「西口」の商店街です。こちらは昭和30年代に入ってつくられました。横浜線のホームからは見慣れた風景だと思います。

次は住宅地の話です。東急による「菊名住宅地」の販売が1927(昭和2)年から始まり、菊名の宅地化が進みました。菊名住宅地は今の「錦が丘」です。

錦が丘といえばロータリーが有名ですが、ここが当初の菊名駅の予定地だったと言われています。

下のスライドに載せたのが錦が丘のロータリーの写真です。日吉や田園調布の駅前が似たようなつくりになっていますので、ここが駅前になる予定だったという話が広く伝わりますが、今の菊名駅がある場所にもともと計画されていたという説も存在し、ロータリーは住宅地のシンボルとして設けられたものという見方もあります。

ロータリーは今も錦が丘のシンボルですし、菊名の宅地化が進んだ記念碑的な存在ではないかと思います。

錦が丘の「ロータリー」(左)と、坂の上から見たロータリー(右)(映写スライドより)

右側の写真が坂の上(菊名駅寄りの桜木坂)からロータリーを写したものです。その向こうはまた上り坂(東雲通り)になっています。菊名は丘に向かって住宅地が広がっているのも特徴です。

東横線が開業したのは関東大震災のすぐ後(2年半後)でした。震災では建物が密集していた都市部が大きな被害を受けており、郊外への移住が進むのですが、その際に菊名のような丘の上は静かで見晴らしが良く、水害にも強いという利点から選ばれたという背景があります。

上のスライドのように、住宅地は丘に位置しているのですが、対して菊名駅は丘の谷間に置かれています。そのため昔は線路がよく水没しましたし、今も駅周辺には広い平地がなく、新たな開発が難しいという側面もあります。

一方、こうした丘の地形だからこそ古い伝承が残ったり、静かで落ち着いた生活環境もあり、それでいて乗り換え駅として東横線の特急も停まります。幹線道路の綱島街道も駅の近くを通っています。

こうした交通の便利さを併せ持つのが菊名の街ではないでしょうか。

【妙蓮寺】古き高級住宅地と菊名池

次は妙蓮寺のお話です。まず、妙蓮寺という地名はありません。妙蓮寺駅を最寄りとしているのは菊名1・2丁目や富士塚、仲手原、篠原東に加え、菊名3丁目や篠原西町、篠原台町も入るかどうかだと思います。

ここに挙げた町名のなかで古くは菊名が「菊名村」で、それ以外のところは「篠原村」でした。このあたりも昔は農村地帯で田畑が広がっていたところです。

菊名も宅地化が早いほうでしたが、港北区のなかでもっとも早く、大正時代の終わりごろから宅地開発が進んだのがこの妙蓮寺の周辺でした。

妙蓮寺駅ですが、もともとは1926(大正15)年に「妙蓮寺前駅」という名で開業しています。1931(昭和6)年に“前”の字を取って現在の駅名となりました。由来は言うまでもありませんが、駅前にあるお寺の「妙蓮寺」です。東横線の港北区内5駅のなかでは唯一、地名の入っていない駅になります。

実は妙蓮寺駅の住所は「菊名1丁目1番1号」となっており、菊名駅は「菊名7丁目1番1号」ですので、住所だけを見ると妙蓮寺が菊名の中心という雰囲気もあります。

お寺のほうの妙蓮寺ですが、今の妙蓮寺が置かれている場所にはもともと「光寺」という寺があり、神奈川区には「仙寺」がありました。この妙仙寺が蓮光寺の場所に移って2つのお寺が合併し、両寺から1文字ずつ取って「妙蓮寺」が生まれました。

妙蓮寺駅の駅舎(左)と踏切の向こう側に「妙蓮寺」の山門(映写スライドより)

その後に東横線を通す話が出てきまして、妙蓮寺が無償で土地を提供したことから感謝の意味も込めて、お寺の前に駅がつくられたと言われています。

そして妙蓮寺駅と言えば、近くの「菊名池」も忘れてはならない存在ではないでしょうか。

菊名池はもともと、農業用水のため池としてつくられたものですが、池自体は1000年前からあり、龍神様に守られた神聖な池として、古くから大切にされてきました。

昭和の初めに「水道道(すいどうみち)」が通り、菊名池の上には「菊名橋(1935年竣工、今は橋の親柱のみが菊名池公園内に残る)が架けられています。昭和30年代までは貸しボートや釣り堀もあり、地元のレジャースポットとして賑わっていました。

ただ、宅地化が進んだことで池に生活排水が流れ込み、汚れや悪臭といった問題が出てきます。1972(昭和47)年に港北水再生センター(港北下水処理場)が完成し、池への下水放流を止めたことで改善していきましたが、この時に池の南側半分が埋め立てられ、「菊名池公園プール」がつくられます。

上のスライドは菊名池の空中写真による移り変わりです。左端に見えるように、大きな菊名池に水道道の菊名橋が架けられ、今は池の水辺とプールが分かれています(写真右端)。こちらを見ると、今の菊名池公園は、昔の池の形のまま公園になっていることが分かるかと思います。

続いては住宅地の話です。妙蓮寺の周辺は港北区内でもっとも早く大正の終わりから宅地開発が進んだ地域です。関東大震災後に市街地から文化人や著名人、企業の社長などといった人たちが移り住んだ高級住宅地でした。

今も富士塚の住宅地などを歩くと、入り組んだ道があったり、階段を上ったりと早い時代に開発が進んだということが実感できるような環境となっています。

神奈川新聞の前身である「横浜貿易新報」が1930(昭和5)年に行った「県下新住宅地十佳選投票」と題された投票企画では、第5位に「妙蓮寺前住宅地」が入っており、古くからの著名住宅地であったことを示しています。

なお、この時の1位は妙蓮寺駅からも比較的近い神奈川区の「白幡丘住宅地」となっており、周辺一帯が人気の住宅地でした。

下の写真は、住宅地投票で5位に入った際の記念碑です。今も妙蓮寺の東門(本堂の後方)の脇に残されています。この碑の向かい側がかつての妙蓮寺前住宅地となります。

妙蓮寺は住宅地に加え、商店街も街の魅力です。昔からのお店も多く、街並みには昭和の雰囲気も残り、どこか懐かしさを感じます。店主の個性や思いが光る店もあって、人と人のつながりを感じられる場所となっているのではないでしょうか。

また、お寺の妙蓮寺で開かれているジャズコンサートやラジオ体操なども商店街の主催ですし、商店街が買物の場にとどまらず、街の魅力発信や人が集まるきっかけを生み出し、地域の愛着を育む役割も果たしています。

これらを踏まえ、妙蓮寺の街を「歴史のあるお寺と池が見守る、文化人や著名人も住んだ、暮らしを感じる住宅地」ということでまとめたいと思います。

100年間かけて個性豊かな街に

かなりの駆け足で3つの駅と街のお話をしてきましたが、それぞれに違う歴史と個性があるということはお伝えできたのではないかと思っています。

東横線が敷かれて駅が置かれ、街ができますが、そこに色んな思いを持った人が集まったことが、これまで育まれてきた街の魅力ではないでしょうか。

今、街に住む人たちも、より良い街にしたいと取り組みを行っています。日常的には地域にある花壇のお手入れから、大倉山ハロウィンやカーボン山(菊名桜山公園)桜まつり、妙蓮寺のジャズコンサートといったイベントまで、さまざまな活動が行われています。

こうした取り組みを通じて街への愛着が育まれ、希望や要望が実現されていくことで街の新たな魅力になり、歴史になっていくのではないかと思います。

もともと農村地帯だった港北区域が100年でこれだけ発展し、それぞれに個性豊かな魅力ある街になりました。

これまで築かれてきた100年を大切にしながら、これからもつないで行ければと思います。街の未来をつくるのは私たち、地域の皆さんだと思います。この後、パネルディスカッションがありますので、これからの街をどのようにしていくか、ぜひご一緒に考えていきましょう。

「<東横線100周年レポート(6)>菊名が持つ可能性と変化する妙蓮寺の日常」へつづく

)この記事は「新横浜新聞~しんよこ新聞」「横浜日吉新聞」の共通記事です

【関連記事】

【東横線100周年フォーラム~登壇者】大倉山駅・林宏美さん(大倉精神文化研究所図書館運営部長・研究員)(2025年7月7日)

<東横線100周年レポ(4)>綱島の栄枯盛衰、温泉と鉄道が街に与えた大きな影響(2025年9月16日)

<港北舞台の文芸作品3>多彩な芸術家が言葉を紡ぎ残した大倉山の10人【後編】(2024年9月9日、商店街や大倉山記念館、街の発展についても)

「東横線100周年フォーラムレポート」の記事一覧(全8回)(全レポート)

【参考リンク】

「東急東横線100周年フォーラム~沿線5駅の“未来を語る”」特設サイト(当日の動画も公開)