源頼朝(よりとも)の伝説が残る岸根町の「琵琶橋(びわばし)」について初の本格的な調査が始まり、遺物の石に刻まれていた文字の解明が行われています。
今週(2022年)10月30日、かつて橋として使われていた3つの石の拓本(たくほん)を採(と)り、文字を浮かび上がらせたところ、250年以上前につくられたことをうかがわせる年号が判別できました。
琵琶橋は、岸根交差点近くで鳥山川から分かれて流れていた「根川」と呼ばれる農業用の水路にかけられていた小さな橋で、同水路が道路の下に隠れる「暗渠(あんきょ)」となる以前の1980年ごろまでは橋が残っていたといわれています。
江戸時代の“風土記”も取り上げる
小川に「石」をかけただけの小橋自体は目立つ存在ではなかったものの、周辺地域ではさまざまな伝説を持つ橋として知られていました。
たとえば、源頼朝が鎌倉への帰り道に通りかかり、一人の琵琶法師(びわほうし)に会って琵琶をひかせて休憩したという伝説をはじめ、「盲目(もうもく)の琵琶法師が杖で叩いただけで橋の木の名を言い当てた」とか、「琵琶法師が琵琶(楽器)を橋のようにかけて渡ろうとしたら転落死した」など複数の言い伝えが古くから広まっており、江戸幕府が編纂した「新編武蔵風土記稿(むさしふどきこう)」にも記されたほど。
昭和時代も“伝説の史跡”として書籍などに取り上げられることが多く、地元で唄い継がれる「岸根音頭」にも「岸の根(岸根町の古い呼び方)琵琶橋 武蔵の名所」という歌詞が盛り込まれています。
橋に使った「石」が残されていた
橋が廃された後も使われていた石の一部は残され、1995(平成7)年ごろからモニュメントをつくる計画が幾度か持ち上がっていましたが、これまで実現はしておらず、石は近くの民家の庭に置かれ続けている状態でした。また、史跡として専門的な調査が行われたこともなかったといいます。
このほど、周辺の土地所有者が変わったことをきっかけに岩田一清さん(新横浜1丁目の不動産会社「ビルコ」経営)ら岸根町に住む有志が調査を始めたもので、岩田家は古くから「びわ橋」という屋号を持ち、かつて同橋の横に住んでいたといいます。
調査には大倉精神文化研究所の理事長・平井誠二さんや郷土史研究家で大倉精神文化研究所の理事もつとめる小股昭さん、新横浜周辺の郷土史に詳しい臼井義幸さんらが協力し、石に刻まれた文字の解明が行われました。
文字が彫られた石は3点あり、漢字らしき字は肉眼でも微かに見えるものの判読は難しかったため、水で濡らした薄い紙を密着させ、墨を塗って凹凸(おうとつ)を浮かび上がらせる「拓本」の手法によって文字を記録する作業を実施。
その結果、3つの石にはすべて異なる時代の年号と、「講中(こうじゅう)」と呼ばれる地元の信仰仲間の氏名が刻まれていました。
250年前の「明和五年」と判別
最古とみられる横183センチの花崗岩の石には、「明和五年(1768年)子(ね)年」や「岸野根村(きしのねむら)庚申(こうしん)講中」とあり、250年以上前のものだった可能性があります。
また、横約250センチのもっとも横長の安山岩の石からは、「文化十三(1816年)四月」という206年前の年号が浮かび上がりました。
一方、推定横150センチほどの石は何らかのきっかけで2つに割れてしまったものとみられ、文字面の一部は失われているものの、年号らしき「●治十九年」という文字が見え、明治期のものの可能性があるとのことです。
いずれの石にも寄付をしたとみられる人の名が複数刻まれており、作業を見守っていた人たちからは「ほとんどが昔から岸根町に住んでいた人の苗字だ」「あの家のご先祖ではないか」といった声が飛び交っていました。
大倉精神文化研究所の平井さんは、「刻まれていた名前をきっかけに地域から琵琶橋に関する新たな話が聞けるかもしれない」と期待を寄せます。
岸根町の有志では今後、調査をもとに記念モニュメントの設置も検討していく考えです。
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【参考リンク】
・シリーズわがまち港北「第67回 琵琶橋を語り継ぐ」(大倉精神文化研究所、2004年の段階でも保存の動きがあった)
・シリーズわがまち港北「第59回 英雄源頼朝の伝説」(大倉精神文化研究所、琵琶橋での伝説など)
・とうよこ沿線「東横沿線の民話 琵琶橋」(1988年2月、インターネット版に転載)