港北区の都心・新横浜と篠原・大豆戸・菊名・小机・新羽などの地域情報を伝えるインターネット新聞

絵画に情熱を注ぎ、地域でもその輪を広げる活動を続けている元サラリーマンが世界から注目を集めています。岩手県出身、大手生命保険会社でサラリーマンとしての経歴も積んだ港北区日吉在住の佐々木義文(よしふみ)さんは、2009年に「港北美術区民会」を設立。約50数名の会員との交流をはかるほか、国内外への作品の出展、後進の育成と、各方面にて活躍しています。

港北美術区民会の創設者で、現在も会長を務める佐々木義文(よしふみ)さん。日吉駅コンコース内の「虚球自像(こきゅうじぞう)」前で(2018年1月31日)

港北美術区民会の創設者で、現在も会長を務める佐々木義文(よしふみ)さん。日吉駅コンコース内の「虚球自像(こきゅうじぞう)」前で(2018年1月31日)

「絵を描くこと、その喜びを子どもたち、また世代を越えた人々にも伝えたい」との想いから同会を設立した佐々木さん。

「仕事を終えた世代の人々にも、“絵を描くこと”で夢を持ってもらえたら」と、毎年6月には「港北美術区民会展」港北公会堂(大豆戸町)で開催し、地域への情報発信、また会員間相互の親睦にも力を入れています。

幼少時に親しんだ絵画の世界へ30代後半から舞い戻り、40代後半から本格的に洋画の創作を開始。50代後半からの横浜美術協会「ハマ展」の入選に始まり、出身地・岩手やモナコ、フランス、ベトナム、スペイン、ドイツそしてタイなど、世界各国にまでその活動の幅を広げている佐々木さんの絵画芸術の原点とは。

「世界平和」を訴え、また子どもたちが育む未来も視野に、地域にも根差す活動を続ける佐々木さんに、これまでのこと、そしてこれからの夢についても話を聞きました。

絵画で「銀賞」、蝶の研究で「科学賞」も受賞したふるさと・岩手時代

幼少時を岩手県盛岡市で過ごした佐々木さんは、小学校3年生だった1956(昭和31)年に、岩手県の伝統的な産品である南部鉄器を見学、鉄器を作っているところを描いた絵が、クレヨンなどで知られる文具会社・ぺんてる(当時の大日本文具株式会社=東京都)主催の児童絵画コンクールで銀賞を受賞します。

著書「生きるために!!『脱皮』」には、幼少時の想い出を綴ったほか、世界的評価を得た数々の作品、ふるさとの新聞「岩手日報」の記事や、自身で作詞した歌なども掲載している(2018年1月31日)

著書「生きるために!!『脱皮』」には、幼少時の想い出を綴ったほか、世界的評価を得た数々の作品、ふるさとの新聞「岩手日報」の記事や、自身で作詞した歌なども掲載している(2018年1月31日)

その後は、「勉強もせず、山にばかり行っていました」と、虫取り、特に蝶(ちょう)をとるのが好きだったという佐々木さん。カメラも「夢のような金額」で、とても手に届かなかったという時代、ひたすら蝶の絵を描いていたといいます。

中学校に入ると、生物班に入り、蝶の研究をグループで行い、観察日記を制作。読売新聞社が主催する「日本学生科学賞」(読売科学賞)で、中学1年から3年生まで、3年連続で最優秀賞を受賞したとのことで、「生物“班”から、生物“部”に昇格することができたんです」と、後に生物研究の道に進んだ友人らとの日々を懐かしみます。

伝統校で知られる盛岡農業高校(当時は盛岡市、現在は移転)、奥州大学(現富士大学、花巻市)経済学部に学んだ佐々木さんは、就職先について迷ったものの、親類からも推薦された協栄生命保険株式会社(当時の本社:東京都中央区、現在はジブラルタ生命保険が継承)に入社。

「地元で就職したいと地元の大学に進学、面接も仙台で行ったのですが、首都圏に配属になってしまいました」と、故郷・岩手から離れることになったきっかけを振り返ります。

会社業務は「立て直し」専門、絵画の世界に戻るきっかけは「社員旅行」

協栄生命時代は、最終的には「関連会社の役員に就くこともできました」と、“猛烈サラリーマン時代”を振り返る佐々木さん。配属で最も長かったのは武蔵小杉(川崎市中原区)での約12年間もの勤務時代。「港北区に住まいを構えたのも、この頃のことです」と日吉近郊との出会いについて語ります。

各営業拠点で、主に「マイナスからの立て直しの業務が多い立場でした」と、今に通じる“何かを作り上げる”気質とカリスマからか、多く人を魅了し、また巻き込みながら、会社での業績を挙げてきた過去。田無、町田、溝の口、あざみの、新宿、そして両国と東京都内や神奈川県の各支社に配属となり、支部長や関東地区の法人営業部長に。最終的には関連会社に出向、役員として活躍したものの、協栄生命は倒産。「もっと早く君を引き上げていれば」と、かつての上司から嘆かれたといいます。

会社の「社員旅行」がきっかけで絵の世界に舞い戻った佐々木さん。今も、得意の水墨画でのスケッチを外出先でも心に任せ行っている(2018年1月31日)

会社の「社員旅行」がきっかけで絵の世界に舞い戻った佐々木さん。今も、得意の水墨画でのスケッチを外出先でも心に任せ行っている(2018年1月31日)

ここでめげないのが佐々木さんのパワー。「倒産した会社の役員経験者は、誰も雇ってくれない」という就職コンサルの非情な言葉に、「ならば自分で会社を作ろう」と一念発起した佐々木さんは、自ら社長となり、生命保険代理店の株式会社ディー・エイチ・サポート(東京・渋谷区)を1999年に設立。

当時は10数人の協栄生命からの社員も引き受け、「小規模になっていますが、現在も会社は続けています」と、人とのつながりを大切にしながら業務を続けているとのこと。

絵画の世界に戻るきっかけとなったのは、協栄生命時代に溝の口で支部長に就いた30代後半の頃。管理者として「女性社員を平等に扱わねばならない場面に遭遇したのです。当時の女性社員は、“あの人とばかりしゃべって”と、少しでもひいきをしていると感じると攻撃をされてしまうような雰囲気がありました。誰とも話さず過ごすために、風景画でも描いてすごそうかな、と。山梨の桃を、得意だった水墨画で描いたんです。父が国語科の教師で、書道の先生をしていたので、筆を扱うのが自分も得意だったんですよ」と、ビジネス戦士としての思わぬシュチュエイションから「絵画の世界へ」戻ることができたという佐々木さん。

今でも、筆を10本以上は常に持ち歩いているといい、「遊び心で、旅行の合間に、スケッチブック片手に絵を描いています。いたずら好きで、そんな気持ちで昔を思い出しながら、旅に出ているのですよ」と、苦しみの中から希望を見い出そうと日々這い上がろうと努めた社会人時代、その合間にふと舞い戻った絵画の世界についても、「自身の生きがい」としての復活を遂げることができたと、当時の想い出、一つひとつのエピソードを、“熱く”振り返ります。

ネットで作品発表がきっかけ、地元・横浜から世界的評価を次々と

絵画の世界に戻った佐々木さんの作品は、多く人々の心を捉(とら)え、50代後半からはハマ展(横浜美術協会、事務局:横浜市中区)の入選・受賞や、2008年のセルジュ・リファール賞(モナコ公国政府)、クレベール賞(日仏150周年記念芸術祭OASIS大阪展およびパリ展)、2009年のベトナム平和芸術賞(ベトナムオアシス展)、2011年の財団法人国際親善協会大賞・推薦作家優秀賞(ドイツ・フランクフルトにて日独交流150周年記念)と、国際的にも高い評価を得るにまで至った佐々木さんの絵画芸術の世界。

出版を祝う会も昨年(2017年)6月に日吉で行われた。表紙を飾るのは「プラハの思い出(カレル橋)」。この絵が著名な絵画関係者の目に留まり、その後、数々の世界的評価を得るきっかけとなったという

出版を祝う会も昨年(2017年)6月に日吉で行われた。表紙を飾るのは「プラハの思い出(カレル橋)」。この絵が著名な絵画関係者の目に留まり、その後、数々の世界的評価を得るきっかけとなったという

以降も、2013年には、ルーブル美術館(フランス)分室グランドオープン記念のジャパニーズアーチストアートポスター収蔵「黄金の翼大賞」、同美術館開館220年記念「トリコロール芸術の翼大賞」、2015年にはフランス芸術協会選考委員長(クリスティーヌ・モノー氏)よりオルセー世界芸術遺産作家認定、2016年には日伊修好通商条約締結150周年記念イタリア最高芸術勲章も受章しています。

作品が高く評価されるようになったきっかけの一つに、佐々木さんは「インターネットで作品を発表したこと」を挙げています。

偶然、作品を見た芸術大学の関係者から「作品を(実際に)見せてください」と声がかかったとのこと。

人との出会いを大切にしている佐々木さんらしく、その後の作品の評価、そしてそれらの受賞をきっかけに、多くの人々、そして世界各国の評価も、次々とやってくるようになったといいます。

「社会人として、インターネットに精通していたのも、良かったのかもしれません」と、惜しみなく自身の作品を世の中に公開したからこそ、多くの人々とつながることができた、と佐々木さんは、数々のつながりを作ってくれた「ネット環境」に、大きな驚きと感謝を感じたといいます。

平和を祈る作風、「命に問いかける絵画」で、世界や地域、人々をつなぐ

「作品には人の姿を入れるようにしています」という佐々木さんの筆致は、水墨画をベースに油絵具をのせていますが、いずれも人としてのあたたかな目線が感じられるような作風ということもあり、また「平和」をテーマにした表彰を数多く受けているのも特徴となっています。

佐々木さんは、「民主主義国家、つまり人が人である文化的国家、人の命優先、私も芸術家として命を大切にせよと叫びたい。それが平和への祈りであり、美しい日本のこころであり、誇りであると私は思います」と、昨年(2017年)6月に発行された自身による著書『生きるために!!「脱皮」』(美術の杜出版)で述べています。

「子どもたち、仕事を終えた人たち、そして地域の商店街など広く芸術を広げていきたい」と願い、港北美術区民会を立ち上げた佐々木義文さんの挑戦は、これからも続いていく(2018年1月31日)

「子どもたち、仕事を終えた人たち、そして地域の商店街など広く芸術を広げていきたい」と願い、港北美術区民会を立ち上げた佐々木義文さんの挑戦は、これからも続いていく(2018年1月31日)

出身地・岩手でのギャラリー開設や母校での講演、出身者や文化人との交流も活発で、特に地元新聞への登場多数、ここ港北区周辺でも、「立ち上げ当時は10数名しかいませんでした」という「港北美術区民会」は、現在約50人の会員数となるまでに、地域の人々の“芸術”を通じた交流の場としても成長し続けています。

タイ王国で芸術の最高峰といわれる国立シラパコーン大学(バンコク)の芸術センター社会教育美術教授にも2014年から就任している佐々木さんらしく、「港北美術区民会を立ち上げたのも、子どもたちに命の大切さを知る、そんな教育を絵画を通じて行いたいと思ったからなのです」と、港北区周辺に生きる子どもたち、また年代を越え、自分のような元サラリーマン、また地元の商店街の人々なども一緒になって「芸術の素晴らしさを共有したい」という強い想いから、地域での活動もスタートしたと力強く語ります。

「私は命に問いかける絵画をどうしても描きたいのである。生きている素晴らしさ、人間として生まれてきた喜び、感謝、特に現代はその部分が遅れて来ているのではないか」(同著)。

街を愛し、国を愛し、人を愛する佐々木義文さん。

港北区に住まい、ふるさと・岩手を想い、世界各国にそのメッセージを発信し続ける佐々木さんの作品、そして生きる姿は、子どもの頃追いかけた「蝶」の世界から、「絵画」という姿に形を変え、時代や地域を越え、世界中の人の心に響き、受け継がれるよう、きっとより大きく“羽ばたいて”いくはずです。

【参考リンク】

株式会社ディー・エイチ・サポートのサイト

ディー・エイチ・サポートのFacebookページ

佐々木義文 「民俗の奏(うた)」「タイムスリップ(明治に向う)」(美術情報サイト『Art Annual online~株式会社美術年鑑社)

公募 港北美術区民会2017(港北区「楽・遊・学」)[PDFファイル]※2018年も第10回目の開催を予定

画家さんのブログ~旅行等スケッチ・油彩を記載(2009~2012年)

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