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【東横線100周年フォーラムレポート(3)】先月(2025年)8月19日に慶應義塾大学日吉キャンパス内協生館で行われた「東急東横線100周年フォーラム~沿線5駅の“未来を語る”」(一般社団法人地域インターネット新聞社主催)について、今回は日吉駅が持つ価値と歴史について解説した慶應義塾福澤研究センターの教授・都倉武之さんの講演を紹介します。

鉄道敷設と「まちづくり」がセットに

司会(広瀬未来)>

ここからは日吉駅、綱島駅、そして大倉山・菊名・妙蓮寺と港北区内5駅の歴史につきまして、3人の歴史研究家の方々にそれぞれ解説をいただきます。

お1人目は、日吉駅担当の都倉武之(とくらたけゆき)さんです。

都倉さんは1995(平成7)年に慶應義塾高校(日吉4)に入学、1934(昭和9)年に建てられ現在も高校の校舎として使われている日吉キャンパスの「第一校舎」や、太平洋戦争末期に日吉キャンパスの地下に海軍が建設した「日吉台地下壕(ごう)」など、近現代史の現場に触れ、大いに刺激されたそうです。

少人数の学生で日吉を探求する「日吉学」と題した授業を共同担当。現在は慶應義塾福澤研究センター(東京都港区三田)の教授として、近代の日本政治史、政治思想史、メディア史を担当されています。それではよろしくお願いいたします。

慶應義塾福澤研究センター教授・都倉武之さん

ただいまご紹介いただきました慶應義塾大学の都倉と申します。研究者の性(さが)で資料いっぱいに文字を書いてしまう癖がありまして、かなり端折りながら日吉駅の話をさせていただきたいと思います。

歴史の観点から「日吉を推(お)す」というのが私に与えられた使命だと思っておりますので、日吉がいかに価値のある場かということをこれからお話ししてまいります。

「『日吉駅』過去・現在・未来」のテーマで講演が行われた

今ご紹介いただきましたように、1995(平成7)年に慶應高校に入って日吉という場所に出会ったので、ちょうど私も30年ということになりました。

最初にこちらの資料をご覧ください。1934(昭和9)年に慶應大学が日吉にキャンパスを設けた頃の東横線周辺の沿線図です。

1934(昭和9)年5月頃とみられる東横線などの沿線案内(映写スライドより)

左下の拡大図をご覧いただくと、東横線の各駅の周りには色んな名所が描かれています。これらは線路を敷いてから主に誘致され、新たにつくられてきた場所です。

見ていただきたいのが田園調布新丸子日吉菊名と各駅の周りに放射状の印が描かれていることで、これは住宅街を開発しているということを表しています。

放射状の街というのは、実際に田園調布と日吉に分かりやすい形で残っているわけですが、線路を敷くとともに「まちづくり」がセットとなっていたことが、この沿線図からも分かるのではないかと思います。

記念碑が伝え続けた“発祥の地”

東横線のなかで日吉を推す第一のポイントですが、「東急電鉄発祥の地」という記念碑が日吉に置かれていたことをご紹介します。

かつて東横線の横浜方面行の電車が日吉駅のホームに入っていく少し手前右側(※)に東急電鉄発祥の地という巨大な碑があったことをご記憶されている方はいらっしゃいますか? あまりいらっしゃらないですね。もう少しいるかと思ったのですが……。

私は高校に入って以来、毎日眺めていて、この碑は一体なんだろうと実際に見に行ったことがあります。しかし、大学生の頃に突然、無くなってしまいましたのでびっくりしました。今は元住吉に移設されていると聞いております。

「東急電鉄発祥の地」の記念石碑は、現在「日吉町自治会館」や「日吉不動尊」などが置かれている日吉2丁目27番地の一画、マンション「ジェイグランディア日吉」(旧三菱重工社宅を転換した慶應大の学生寮「日吉インターナショナルハウス」跡地)の裏手付近に「日吉町東急記念公園」という名で2000年代初頭まで置かれていた。もともと周辺の土地(4300平方メートル)は、昭和30年前後の住宅難だった時代に東急による住宅開発のさきがけとして社宅向け「日吉アパート」(4階建て4棟、64戸)を建設し、三菱重工に売却。1956(昭和31)年1月の竣工時に敷地の一部を使って石碑を設けたもの。なお、石碑は2003(平成15)年に元住吉車庫(元住吉検車区)の一画にある乗務員訓練施設「東急教習所」(川崎市中原区木月3)へ移されている

なぜ日吉にこういった記念碑があるのかと言いますと、そもそもここに路線を新設するということが決まって、線路を敷く土地を整備するために水田を埋め立てていくわけですが、埋め立てる「土砂」を取るための場所、それが日吉で買われた土地でした。

一番最初に購入された土地が日吉であり、その土取りをした場所の跡に記念碑が建っていました。1925(大正14)年の1月10日に土地が取得され、翌年の2月14日には東横線の一部区間(丸子多摩川駅=現多摩川駅~神奈川駅間)が最初に開通します。

【参考】1960(昭和35)年に刊行された「五島慶太の追想」(五島慶太伝記並びに追想録編集委員会)には、1956(昭和31)年1月に日吉で行われた「東急電鉄発祥の地」碑の除幕式の様子が掲載されている。碑文の冒頭に「鉄道建設の第一着手として日吉より新丸子に至る水田を埋立てるため大正十四年一月十日土取場として最初に買取した土地である」と記された。この碑を設けたのは「当社創業の精神を社員に浸透させ、おおいに士気を鼓舞する意味」(1973年「東京急行電鉄50年史」)があったという(国立国会図書館デジタルコレクション)

開通翌月の1926(大正15)年3月16日に「開業式」が行われるのですが、それも日吉で開かれています。

ここ日吉が東横線をつくり始めたスタート地点であるいということを表すため、1956(昭和31)年に五島慶太(東急の実質的な創業者)が自ら撰文(せんぶん)し、記念碑が建てられました。

東急の創業は、先ほどご説明(東急・竹内さんの講演)があったように1922(大正11)年に発足した目黒蒲田電鉄(1922~1939年)という会社までさかのぼれますが、東横線のアイデンティティーとしては日吉がスタートだった、という歴史観を持っていたということが記念碑の存在から分かるわけです。

最初に学校を誘致したのは日吉

日吉に価値がある、というポイントの二つ目は学校誘致という点です。

東横線にはさまざまな学校が誘致され、今でも駅名には都立大学や学芸大学といった名前が残っていますが、最初に学校を誘致したのがこの日吉でした。

目蒲電鉄(目黒~蒲田)のほうでは先ほどお話がありましたように、東京工業大学(現東京科学大学、大岡山キャンパス)や府立八中(現東京都立小山台高校)といった学校誘致は行っていましたが、東横線においては日吉が最初だったわけです。

なぜそうなったかを少し掘り下げて考えてみますと、慶應義塾側の事情として関東大震災(1923年9月1日)があります。三田が本拠地ですが、狭くてこれだけ校舎が密集していると危ない、ということになり、分散させる検討が始まりました。

1928(昭和3)年から新しい用地探しが始まり、さまざまな候補地(神奈川駅や下高井戸など)があったと伝わっていますが、探しているときに「東横線沿線はどうか」という話が来るわけです。

東横線側の事情としては、先ほどのお話にもありましたが、1926(大正15)年2月14日に丸子多摩川から神奈川間が開通して日吉駅が誕生し、この年の10月には日吉台の住宅地販売も始まっています。

【参考】1926(大正15)年に日吉台の土地が売り出し始めた頃、朝日新聞に掲載された広告。「東京と横浜との中央」「土地高爽」などとPRしている。田園都市株式会社は1918(大正7)年に渋沢栄一らが立ち上げ、目黒蒲田電鉄の源流となる会社で1928(昭和3)年に吸収合併されている(1926年10月9日朝日新聞朝刊より)

翌年の1927(昭和2)年には渋谷まで開通し、東横線の名前が付けられますが、しかし、ガラ空きなので、「ガラ空き電車をご利用ください」といったキャッチコピーで自虐的なポスターも作られました。加えて住宅もまったく売れません。これは世界恐慌の影響や横浜の土地柄もあったと言われています。

慶應の誘致は「大英断中の大英断」

先ほども名前が出ていましたが、慶應を誘致するに際しては(大阪・宝塚・神戸・京都を走る)阪急電鉄創業者・小林一三(いちぞう)という方が関係があり、小林は慶應の出身で仲介をしたと言われています。

小林一三は、何もないところに電車を敷き、その周りにいろんなものを建てて乗客を創造するんだ、ということを言った人です。関西で「綺麗で速くてガラ空きで」と言ってたのが阪急電鉄でした。

これに倣うような形で東京横浜電鉄でも学校を誘致し、慶應側としても場所を求めている状況が一致して生まれたのが日吉キャンパスです。

1928(昭和3)年の8月に当時の東京横浜電鉄から初めて打診があったと言われます。現在はキャンパスのある駅東側も当初は住宅の予定地でしたが、これを(7万2000坪=24万平方メートル)を無償で提供するという内容です。

慶應日吉キャンパスが建設される前の日吉駅周辺(映写スライドより)

当時の写真を見ますと、今では想像できないような景色が広がっていました。東側、現在慶應のキャンパスがある側です。ご覧の通り、畑が広がっていました。駅を挟んで反対側(西側)、現在の商店街の方も、ほとんど家が無く、宅地がまったく売れてないということがよく分かります。

1929(昭和4)年に慶應義塾と仮契約が結ばれます。慶應と交渉中は住宅販売を一時ストップしていましたが、契約が決まりそうだということで「慶應義塾の移転決定」をキャッチコピーとし、住宅地の一部を商店地に変更して売り出すこともしています。ですので、日吉駅の西口は住宅と商業地が混在した形となっているわけです。

そして、1930(昭和5)年に慶應と東横電鉄の本契約が結ばれ、足りない土地は慶應が買うことをあっせんしてくれるという約束で、合計13万坪(43万平方メートル)が確保されることになります。

1943(昭和18)年に発行された東京横浜電鉄の社史でも「大英断中の大英断だった。他の追随を許さぬ犠牲が払われた」と非常に強い言葉で自画自賛されているほどの誘致でした。

誘致決定で住宅が飛躍的に売れる

1929(昭和4)年から1930(昭和5)年にかけての日吉キャンパス誘致決定と日吉台の宅地販売の流れ(映写スライドより)

日吉に慶應義塾が来ることが決まり、住宅販売の営業成績もすごく向上したことは数字でも明らかです。

1929(昭和4)年の下期には1万6000平方メートル超しか売れていなかったのが、1930(昭和5)年上期には13万7000平方メートル超というふうに驚くべき伸びを見せました。

1934(昭和9)年に慶應大学(予科)の授業が開始され、登下校時には東横電鉄が増便するというような契約も盛り込まれていたと言われています。写真は渋谷駅に停まっている昭和10年ごろの東横線電車ですが、慶應のペンマークが付いていて、そのなかには「日吉 渋谷」と書いてあります。

渋谷~日吉間にペンマークを掲げた電車も走った(映写スライドより)

東急不動産が発行している社史によると、現在の東急沿線で1937(昭和12)年3月までの段階で、旧制中学校以上の70校を沿線に誘致することを手がけたと書かれています。そして東横線沿線の学校誘致の出発点になったのが日吉の地だということです。

【参考】1943(昭和18)年3月に東京急行電鉄株式会社から発行された「東京横浜電鉄沿革史」には沿線に位置する主要学校の一覧が掲載されており、「慶應大学予科」(現慶應義塾高校など)と「藤原工業大学」(現慶應大学理工学部)は正確には「横浜市港北区」だが“川崎市日吉町”と誤って記されている。日吉村は1937(昭和12)年に分裂する形で川崎市と横浜市に分割吸収されているが、分割された場所は広く伝わっていなかったようで、戦前は日吉駅周辺を「川崎市」としている文章も見られる。表の「日大第四中学校」「日大第四商業学校」は戦後に日吉駅が最寄りの港北区箕輪町に移って日本大学高校・中学校となり、同様に「高木高等女学校」は戦後に港北区菊名町へ移り、現在は英理女子学院高校となっている。いずれも戦中に校舎などが空襲被害を受けての移転だった。1942(昭和17)年に妙蓮寺駅が最寄りの港北区仲手原(当時は篠原町)に開校したばかりだった「(旧制)武相中学校(現武相中学校・高校)は載っていない。また、戦後の1947(昭和22)年に白楽駅が最寄りの港北区篠原台町で「横浜ドレスメーカー女学院」として開校し、1968(昭和43)年に清心女子高校となった同校も未掲載(国立国会図書館デジタルコレクション)

国宝や重要文化財級の遺物を発掘

また、日吉という土地は、古代から大変住みよい場所だったということが慶應がやってきたことによって明らかになってきました。

1930(昭和5)年から慶應大学の関係者による発掘調査が行われ、国宝や重要文化財などさまざまな遺物が発見されています。

日吉キャンパスの建設前に発掘調査が行われており、重要な遺構と出土品が見つかっている(映写スライドより)

こちらの写真は、発見当時は日本最大だった弥生時代の住居跡(弥生式竪穴住居址)ですが、これは保存され、日吉キャンパス内で今も公開されています。

古代においては、下末吉台地の突端という立地で古代人にも住みよい場所であったということです。

日吉の“表と裏論争”の考え方

日吉駅をはさんで慶應側(綱島街道側)と商店街側で、どっちが表だ裏だという論争があります。

慶應生が日吉の商店街側を“ひようら(日吉の裏との意)”と呼ぶことに対して、非難の向きがあることもよく承知しており、非常に失礼だと私も思います。

日吉駅の表はどちらか、という議論について検証(映写スライドより)

一方、歴史的に考えますと、日吉村(1889~1937年)の村役場はどこにあったのかを見ると、矢上(現在の川崎市幸区寄り)のほうにありました。

村立の「日吉」の名が付いた小学校(日吉尋常小学校=現川崎市立日吉小学校)は、今は川崎市幸区となっていますが、もっと右側に置かれています(現在の新川崎駅近く、北加瀬1丁目)。

駅を挟んで反対側には日吉という地名の由来となった「日吉山王権現」のある「金蔵寺」(日吉本町2)が位置しています。

そして、こちら側にはもともと駒林小学校(日吉本町2丁目にある現在の駒林小学校とは別)と呼ばれ、住宅街が整備されるなかで日吉台小学校(日吉本町1)と名を変えた小学校があります。

このように見ても“裏表論争”は「おあいこ」かなと。いわば鉄道が人工的に通されたわけですので、それを東西に分けたら、どっちが表か裏かというのは非常に意味のない話ではないかなというのが私の結論です。

街とキャンパスが有機的につながる

駅を境として東西に分けることはあまり意味がないと申し上げましたが、東西が有機的に関わる原点を作ったのがどこにあるかということを考えたとき、1934(昭和9)年に慶應のキャンパスができたことは、出発点として重要なポイントだったのではないかと思います。

日吉キャンパスの建設にあたってはさまざまなデザイン案が出された(映写スライドより)

その後、駅が改良された結果、今は当たり前になっていることですけれども、かつてこのキャンパスが作る際のデザイン案を見るとそうではないことが分かります。

いくつか残っている当時のデザイン案をご覧いただくと、一見すると今とあまり変わらないようですが、その中にこういうデザインがあります。

街との中心線がずれているデザイン案もあった(映写スライドより)

こちらは、今と似ているように見えますが、大きな違いがあります。大学側に入ったところが大きいロータリーになっていて、そこへつながる並木道がまっすぐに伸びているのは今と同じですが、中心線からずれているんですよね。

商店街側からキャンパス内に通っている一本の線が直線になっているのは、かつて当たり前でなく、古い駅舎の時代は、駅を挟んで必ずしも見通せる状態ではなかったわけです。

1937(昭和12)年ごろの日吉駅と、1991(平成3)年に竣工し、1995(平成7)年に駅ビルが完成した現在の日吉駅(映写スライドより)

これを真っすぐにデザインされたというのは、慶應側の考え方といいますか、塀や門をつくることを嫌う学風を反映し、街とつながるオープンな形でキャンパスがつくられました。

今日は最後にキャンパスと商店街側を横からとらえた写真を紹介して終わりにしますが、駅を挟んで分断するのではなく、つながっている街が日吉なのだと思います。

1936(昭和11)年ごろ、日吉キャンパス(左側)と日吉駅(真中)、商店街と住宅地(右側)を横からとらえた写真(映写スライドより)

今は駅舎から街とキャンパスが見通せるようになっており、ますます大学と街が有機的につながりながら、今後も発展し続けていくのではないかという今後の可能性をご紹介し、私の話を終わらせていただきます。ありがとうございました。

「<東横線100周年レポ(4)>綱島の栄枯盛衰、温泉と鉄道が街に与えた大きな影響」へつづく

)この記事は「新横浜新聞~しんよこ新聞」「横浜日吉新聞」の共通記事です

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「東横線100周年フォーラムレポート」の記事一覧(全8回)(全レポート)

【参考リンク】

「東急東横線100周年フォーラム~沿線5駅の“未来を語る”」特設サイト(当日の動画も公開予定)