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港北区が登場する書籍を紹介する「港北が舞台の文芸作品」。第5回の日吉編は関係する作品や作家・著名人が多いため、戦前・戦後・現代と3回に分けて紹介していますが、それでも収まりきらず、今回の「戦後編」からはトピックごとに分割して掲載することにしました。

日吉戦後編の第1回は、太平洋戦争後に米軍が駐留し、混沌とした日吉の街の様子を描いた書籍類を紹介します。

「港北区が舞台の文芸作品」連載について
  • この連載は主に小説と随筆、漫画を含むフィクションを交えた作品を中心に、港北区が登場する文芸作品を2024年6月から地域別に紹介しています。
  • 文中の作家名などは「敬称略」で統一しました。また、作品の公開年は初出時とし、書誌の詳細と文中に引用した版は本ページ下部にまとめて掲載しました。
  • 引用した文章は読みやすさを優先し、旧仮名遣いを現代仮名遣いに改め、旧字体は新字体に置き換えています。
  • 日吉駅の周辺一帯に広がる「日吉本町」「日吉町」「箕輪町」「下田町」で住居表示が行われ、現在の住所表記となるのは1977(昭和52)年以降ですが、それ以前の「●●番地」という表記では位置が特定しづらいため、本稿では番地が掲載されている場合はすべて現在の町名(●丁目)に置き換えて使いました。

日吉へ流れ着いたエリート銀行員

1945(昭和20)年8月の敗戦直後に横浜・山手の家を米軍(進駐軍)によって追い出され、ひょんなことから日吉へ住むことになった一家のエピソードから紹介します。

「出て行けと言われても、使ってよいと言われて移ったばかりだ」と父が文句を言って向こうの司令長官と交渉をした。

「それならば、日吉の焼け残った家があったから、そこに入ったらどうか」ということになり、日吉にあったその空家に入ることになった。その家は、慶応のほとんど敷地内といえるところにある家で、「どこの誰の家だかわからない、持ち主がどこかへ逃げてしまっている家だから、ミスター今川そこへ行け」と言う。米軍が行けというので今度はその箕輪町の家に住むことになった。

到着してみると、確かにその家は慶応の一角にあるのだが、大変なところへ来てしまったと思った。なにしろ方々がひどく壊れていたのである。(略)

(八木和子「ある正金銀行員家族の記憶」)

文中に出てくる“ミスター今川”とは、終戦の年である1945(昭和20)年6月に50歳で「横浜正金(しょうきん)銀行」の取締役横浜本店・東京支店両支配人に就いた今川義利(1895~1978年)のこと。

横浜正金銀行は、現在では神奈川県立歴史博物館(中区南仲通)として使っている建物に本店を置き、戦前の貿易金融を担った国際的な金融機関で、世界各地に拠点を設け、行員が外交官的な役割を担っていたとも言われています。

神奈川県立歴史博物館による「横浜正金銀行」のコレクション展を告知する2024年のポスター(2024年11月9日~12月22日「本店本館創建120周年記念 横浜正金銀行」より)

こうした組織が戦争に寄与したとの見方からGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に解体され、銀行機能は東京銀行(その後東京三菱銀行→三菱UFJ銀行)が受け継ぎました。

戦前日本の“エリート銀行員”だった今川がどんな道を歩んできたのか。長女の八木和子(1920~2018年)が92歳時から書き始めたという追想記には、終戦直後に米軍の命令で横浜・山手の家を追い出され、新丸子にあった正金銀行のクラブハウスに自宅が移されたと記されています。

そして、日吉消防出張所(箕輪町1)の裏手、現在は慶應大学のテニスコートが置かれている付近で残っていた古い民家に再度移転させられることになった際のやりとりが上記の引用です。

横浜正金銀行の取締役をつとめた今川義利を父に持つ長女の八木和子が書き残した「ある正金銀行員家族の記憶」(港の人)は現在も入手可能

今川の要請で家を修理した米兵は、「どうせ軍の管轄だ」といって慶應大学から電気を無断で引き、「そんなものは、はした金だからいい」と今川家は電気代を払わずに済んだといいます。今川の長男はたまたま慶應出身だったので同大と関係がまったく無いわけではありませんが、戦後の混乱期ならではのエピソードです。

正金銀行解体後の今川は、東京製綱(ワイヤーロープメーカー)に転じて社長や会長をつとめ、箕輪町1丁目の家は持主と正式に契約して以後も住み続けましたが、今から10年ほど前に家屋は取り壊されています。

敗戦後の日吉は「米軍基地の街」

エリート銀行員だった今川一家が米軍の都合で転々とさせられたように、戦時中は日本海軍「連合艦隊」の司令部が置かれた日吉の街も、その“支配者”が代わっています。

 日本の敗戦とともに、昭和二〇年九月に慶應の日吉キャンパスに米軍が進駐してきた。第一校舎に米軍騎兵第一師団と米第八軍第二兵団(通信部隊)が、第二校舎に職業訓練所、寄宿舎に米軍将校宿舎、工学部残存校舎その他に米軍料理学校が駐屯した。

米軍は、慶應の他に、近くの日吉本町の岡本工作機械や川崎市中原区木月の航空試験所などにも駐屯し、日吉の町はさながら米軍基地の町と化した。日吉駅周辺は、夕方ともなれば米兵相手の女性が何十人とたむろしていた。当時は治安が悪く、さまざまな問題が起こった。一九四九年一〇月一日に、日吉キャンパスは慶應に返還され、学生達もキャンパスに戻り、日吉の町もようやく本来の活気を取り戻してきた。

(寺田貞治「日吉台地下壕」)

)箕輪町の誤り

1945(昭和20)年9月から1949(昭和24)年9月まで丸4年間にわたって日吉キャンパスを米軍が接収し、箕輪町2丁目の岡本工作機械製作所(現「プラウドシティ日吉」「箕輪小学校」「日大高校・中学校」、岡本工作機械については「戦前編」参照など周辺の旧軍需工場にも進駐が始まります。

上記の文章を執筆した慶應高校教員(当時)の寺田貞治は、長い間放置されていた日吉台地下壕(ごう)を保存するために結成された「日吉台地下壕保存の会」の創設メンバー。戦中戦後の日吉を知る住民への聞き取り調査も多数行っています。

  • 「米兵相手の売春婦(パンパン)が町に部屋を借りて商売をしていた」(1998年6月「日吉台地下壕保存の会会報」第46号)
  • 「パンパンと米兵が肩を組んで歩いているのは日常茶飯事」(同)
  • 「時々、米軍人が家の中に入ってきて怖かった」(同)

といった話を紹介し、2000年4月の同会会報には米軍の将校食堂(現「慶應寄宿舎」)でつとめた経験を持つ人の男性の話が載っており、そこでは、夕方になると日吉駅には十数人の売春婦がたむろし、“米軍の客”と話がまとまると駅周辺の貸し部屋で商売をして、夏になるとグラウンドや地下壕がその場所になることもあったと振り返っています。

終戦後すぐに米軍が接収した日吉キャンパス、慶應義塾に戻ったのは1949(昭和24)年のことで、キャンパスは4年にわたって米軍の施設となっていた。同年10月に行われた「返還式」の様子(1968年「慶応義塾百年史 下巻」より)

戦前、日吉キャンパスの開設で街の風紀が乱れないようにと「女人禁制の発令」さえ出された日吉駅周辺(※前回「戦前編」参照でしたが、戦争を経て「町は闇市とパン助宿で、混迷と汚濁と荒廃に化していた」(小野良泰「父の人生街道~わが子への語りぐさ」)とまで言われる惨状に陥りました。

これを指摘した小野良泰は、通訳者として日吉キャンパスの米軍で働き、その後に日吉台中学校日大高校で教員として勤務した経験も持つ人物。下記のようなエピソードも書き残しています。

 通訳の日日はいい勉強になった。よい躾を身につけることができた。しかし、日本人の日雇労務者は飢えと放心のためか、米軍宿舎から物を盗んだり、物をねだったりして働こうとしない者が多かった。寂しさを味わっていたが、ついに来るべきものが来てしまった。これまでの平和はぶっ飛んでしまった。しごとを怠けたということで、老いた日本人数名が暴行を受けたのである。このあわれな姿を見た私は、事務所から飛び出し、米兵に謝罪し続けたが、やがて忠告に変わったとたん、私に挑んできたのである。こうなったら売られたけんかは買わなければなるまい。機敏な私は彼らを散々たたきのめしてしまった。サイレンはなり、兵舎内は騒然となり、銃を持ったMPが数台のジープでやって来た。

(小野良泰「父の人生街道~わが子への語りぐさ」)

)MP=Military Police=進駐軍の憲兵

米軍属が酩酊し日吉駅前で射殺

人も街も荒廃するなか、小野のように単なる喧嘩でおさまったケースだけではありません。悲惨な事件が起きたのは日吉が“米軍の街”となってから2年半ほど経った頃でした。

(※昭和)二十三年二月十五日午後八時半頃、当時二十歳の若さだった野本兼太郎は、東横線日吉駅構内の人びとの見ている前で、後方から、酔っぱらった米軍軍属に射殺された。

兼太郎は、進駐軍の労務者だった。加害者は、兼太郎が進駐軍の物資をもっていたからだといったが、これが犯人のたんなる弁解であったことは、すぐ明らかにされた。川崎市にいた父親は、一家の経済的支柱だった長男を失い、その後東京のアパートへ移った。見舞金七万円は、かえって、六十になろうというこの父の老い先の心細さを思い知らされるばかりである。

(新井鉱一郎「花のない墓標~進駐軍による日本人虐殺の記録」)

米軍による日吉駅での「射殺事件」は、GHQによる情報統制のためか新聞に報じられた形跡は見つけられませんが、防衛省の組織で在日米軍の施設管理などを担った「防衛施設庁」(2007年廃止)による「防衛施設庁史 第2巻各論編~第3部・第4部」(1978年)にも記録されています。

同書では、被害者・遺族の手記を引用する形で「同人(※米軍の犯行者)相当酩酊の状態にあった由であり、明に酔余のいたずらによるとしか考えられない」と断じました。

海軍“軍神”の姪が日吉で米軍に

この項の最後に少し意外なエピソードを紹介します。

 日吉にある慶応大学は戦時中、海軍の大本営が建物を使用していたため、軍事施設並に接収されてしまっていた。藤木家の近所の方がそこの労働事務所につとめていて、クラブガールとメイドを募集しているから行ってごらんなさいといわれた。

銀杏並木の入り口に立つM・Pに驚かされながら恐る恐る出頭した私は、アメリカ人将校や二世、日本人事務官にかこまれて、二、三問回答しただけであったが、米軍将校の、

“Shi is OK”

という声をきき、ほっとした。(略)

(高城知子「広瀬家の人びと」)

戦後の一時期、日吉本町の家で居候していたという高城(たかき)知子は、父も祖父も海軍の軍人だった広瀬家に生まれ、祖父の弟(大叔父)は日露戦争での戦死後に「軍神」として神格化された海軍中佐の広瀬武夫でした。

戦前の1943(昭和18)年まで秋葉原駅の神田駅寄りに存在した万世橋(まんせいばし)駅の駅前には、日露戦争で英雄となった広瀬武夫(廣瀬中佐)らの巨大な銅像が置かれ、“軍神”として広く知られていた(1912年「日本名勝旧蹟産業写真帖:国定小学校教科書準拠 天」~国会図書館デジタルコレクションより)

当時は日本の誰もが知っていたであろう“軍神・広瀬中佐”につながる海軍一家の高城が海軍総司令部崩壊後の日吉に行きつき、敵だった占領軍に雇われるという皮肉のような偶然が起きていたのも混乱期ならではといえます。

参考1:2022年2月10日公開の横浜日吉新聞の記事「日吉に描いた『理想のキャンパス』、未完だから語り継げる歴史」では米軍占領下の日吉キャンパスについても触れています

参考2:横浜正金(しょうきん)銀行については、港北区大豆戸町の旧家出身で同銀行に勤め、のちに横浜経済界の重鎮と呼ばれた磯野庸幸(1878~1981年)や、父親が同銀行出身だったため幼少期から世界中を転々とし、のちに大倉山で暮らした経験を持つ直木賞作家・安西篤子(1927年~)を紹介した「大倉山編(後編)」でも触れています

(「日吉の戦後編」第2回につづく

今回引用した書誌の詳細

)書誌詳細やリンク先は2025年12月時点のものです

  • ある正金銀行員家族の記憶(八木和子):2018(平成30)年6月発行の「私家版『ある正金銀行員家族の記憶』」(八木和子回想録編集委員会)を復刊し、2019(平成31)年港の人刊。本稿は2019年3月港の人刊の初版を引用した【出版社ほか入手可能/横浜市図書館貸出有】
  • 日吉台地下壕(寺田貞治):初出1997(平成9)年8月発行「武蔵野」(武蔵野文化協会、通巻330号)所収。本稿は同号から引用した【出版社ほか入手可能/国立国会図書館デジタルコレクションで公開】
  • 父の人生街道~わが子への語りぐさ(小野良泰著・堀龍之助編):1984(昭和59)年4月自費出版、本稿は同書を引用した【入手困難/国立国会図書館デジタルコレクションで公開】
  • 花のない墓標~進駐軍による日本人虐殺の記録(新井鉱一郎):1959(昭和34)年理論社刊。本稿は1959年3月発行版を引用した【出版社ほか入手困難/国立国会図書館デジタルコレクションで公開】
  • 広瀬家の人びと(高城知子):1980(昭和55)年新潮社刊、本稿は1980年8月発行版を引用した【出版社ほか入手不可/横浜市図書館貸出有/国立国会図書館デジタルコレクションで公開】

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