港北区が登場する書籍を紹介していく「港北が舞台の文芸作品」。連載3回目となる「大倉山編」では戦前から現在までに大倉山周辺を舞台とした作品に加え、この街に住んだ作者の姿も含めて「前編(作品編)」と「後編(人物編)」に分けて取り上げます。
大倉山を舞台とした作品群の特徴をひと言で述べるなら「女性と恋愛」。双方またはどちらかに関わる作品が多くを占めていました。
これから前後編の2回にわたって紹介していく作品内に登場する主役・重要人物(エッセイの作者含む)を並べてみると…
- 一ノ瀬涼子(「ヒノマル」古市憲寿)
- 嵐山小夜子(「夏のあらし」小林尽)
- 堀川真佐子(「日本の気象」久保栄)
- 天野志穂子(「ここに地終わり海始まる」宮本輝)
- 松永ともみ/松永みかげ(「ミラクル☆ガールズ」秋元奈美)
- 高柳蘭(「消防女子!!」高柳青南)
- 保科菊美/三矢沙月(「桃の木坂互助会」川瀬七緒)
- 湯浅京香(「不機嫌なコルドニエ」成田名璃子)
- 帖子(「ギリシア通りは夢夢(ほうぼう)と」中薗英助)※
- 安西篤子(作者本人、「歴史のいたずら」)※
- 遠藤雅子(作者本人、「生命(いのち)、ありがとう」)※
- ジュンコちゃん(「僕の場所」隈研吾)※
- 梅宮アンナ(作者本人、「『みにくいあひるの子』だった私」)※
- ※=「後編」で紹介。上記以外の作品も取り上げています
このように大倉山に関係する作品は、エッセイ(ノンフィクション)の作者自身も含め、作品の主役や重要な登場人物の多くが女性でした。
これは日吉や綱島の文芸作品には見られなかった傾向で、港北区内を舞台とした作品のなかでも、女性の登場比率は大倉山が最多といえます。
歴史順に最初は太平洋戦争前後を舞台とした作品から紹介していきましょう。
“観音山”の中・高・大学生が歩む戦時
この集落では、どこにいても観音山がよく見えた。駅前の坂道を線路沿いに登っていくと、公園の入口に突き当たる。
(略)
・春には梅林目当てに観光客が集まるというが、今日は僕たち以外に人影は見当たらない。大きなハナミズキの木の隣には、園内の地図が掲示してあったが、啓介はそれを一瞥(いちべつ)もせずに獣道に分け入っていく。こんなことなら運動靴ではなく長靴を履いてくればよかった。
・「上級生に教えてもらったんだ。溜め池の裏手に小さな洞窟がいくつも掘られていて、その中の一つで魔女は暮らしているらしい」
(古市憲寿「ヒノマル」)
テレビで活躍し著作も多い社会学者・古市憲寿(のりとし、1985年~)は、作家として「平成くん、さようなら」(2018年)や「百の夜は跳ねて」(2019年)が芥川賞候補に選出されるなど、複数の文芸作品を著していることでも知られます。
古市が2022年に発表した小説「ヒノマル」は、大倉山の街をイメージした「観音山」が舞台。その昔、大倉山記念館が置かれている丘(山)は実際に観音山と呼ばれていたと言われますが、作品では街の名として使われました。
1943(昭和18)年の夏、上浜中学校3年生の「新城勇二」(主人公)は、友人の「啓介」から観音山の中腹に秘密の洞窟があり、“魔女”がいるから退治に行こうと誘われ、山へ向かっている場面が上記の引用部分です。
洞窟で大倉高等女学校(架空)の4年生(現在の高校1年生)「一ノ瀬涼子」と遭遇したことをきっかけに、“軍国少年”の中学生・勇二と、一つ年上で自由主義的な思想が強い聡明な涼子に加え、主人公の兄で慶應大学へ通う「新城優一」の3人による物語が始まります。
兄・優一の徴兵をはじめ、思想調査に名を借りた特高警察の暗躍や、涼子と学者の父が巻き込まれた“非国民”とのレッテル貼りによる村八分的な制裁など、戦況が悪化するにつれて暗い影に覆われる観音山の街。
この中・高・大学生の3人が戦中をどこで過ごし、終戦をどのように迎えることになるのかまでを描いた本作品は、国民が強いられた負の部分をもれなく盛り込む一方、時おり見せる3人の突飛とも思える冒険的な行動に爽快さを感じ、戦時ならではの恋や愛の形にも胸を打たれるのではないでしょうか。
なお、古市は「ヒノマル」を書くにあたって大倉山生まれの建築家・隈研吾(※隈の著作は「後編」で紹介)を取材したといい、隈一家のエピソードが“観音山”でのシーンに散らばっている点も地元住民としては注目のポイント。
上記引用にちらりと出ている「長靴」は、幼少時の隈研吾が赤い長靴を愛用し、大倉山(当時は太尾町)の野山を走り回っていたという話をヒントにしたのかもしれません。
※参考:新横浜新聞~しんよこ新聞で2022年9月12日に掲載した「建築家・隈研吾さん、生まれ育った『大倉山』への深い思いを語る」ではパネルディスカッションのなかで隈研吾が古市憲寿の作品について触れており、また、朝日新聞販売店ASA大倉山・大倉山東部が発行する「大倉山STYLEかわら版!」で大倉精神文化研究所が連載する「大好き!大倉山」の第74回「またも舞台は大倉山か?」(2022年10月15日発行)では「ヒノマル」を紹介しています。大倉山記念館のある丘(山)が古くは「観音山」と呼ばれていたエピソードについては「わがまち港北」(平井誠二、2009年)の「第70回 観音山を関東高野山に」で詳しく書かれています
横浜大空襲で消えた女学生の時間移動
もう一つ、大倉山の戦中を取り上げた作品が少年誌「月刊ガンガンWING」(スクウェア・エニックス)などに連載された漫画「夏のあらし」(全8巻、2006年~2010年)です。2009(平成21)年にはテレビ東京系列でアニメ版も放送されました。
舞台の中心は神奈川区白楽にある「方舟(はこぶね)」と名付けられた平屋の古い喫茶店(架空)ですが、次に重要な場所が主人公らが通っていた戦前の「大倉山高等女学校(架空)」となっており、作品には大倉山周辺と見られる風景が節目ごとに登場します。
実は私 恋愛を経験する前に空襲で死んじゃったのよ
こうして幽霊になったあとも… 経験がなくてね
自分でもどういう感じかそういうの知らないの
だってわかるでしょう
私達が生きられるのは夏の間だけなんだもの
夏が終われば一(はじめ)ちゃんの前からも潤ちゃんの前からも消えてしまうんだもの
…そんなの切ないじゃん
(小林尽「夏のあらし」第5巻)
戦前の大倉山高等女学校へ通っていた頃、1945(昭和20)年5月の横浜大空襲で幽体となり、60年以上経ったある夏、白楽の喫茶店に現れた主人公の“あらし”こと「嵐山小夜子」。
そこで偶然出会った13歳の少年「八坂一(はじめ)」の力を借りることで時間移動(タイムリープ)ができることを知り、現在と過去を行き来しながら、空襲から一人でも救い出そうと奮闘していきます。
年上の小夜子に恋心を抱く真っすぐな中学生・一(はじめ)や同級生の「上賀茂潤」、時間移動して白楽の喫茶店に集まった戦時の“女学生”たち、謎の多い喫茶店のマスター「さやか」らとともに過ごす賑やかな現代の夏のエピソードが最初は続くのですが、後半は暗転。
過去を知るために時間移動した第6巻から7巻にかけての鶴見空襲(川崎大空襲、1945年4月15日)と、物語のフィナーレとなる第7巻から8巻における横浜大空襲の描写は圧巻で、少年漫画で「ここまで描くのか」と驚かされます。
作者の小林尽は、本作の舞台に横浜を選んだ理由を尋ねられ「日吉に海軍の総司令部があったからと、馴染みもあったから」(「夏のあらし!コミックガイド6.5」、2009年)と答えています。
小林の詳しいプロフィールはほとんど公表されていませんが、朝日新聞社のasahi.comが掲載した慶應大学の公認サークル「ストーリー漫画研究会」に関するコラム記事(2010年12月7日公開)によると、小林は同研究会のOBであるとのこと。
先に紹介した「ヒノマル」を書いた古市憲寿も慶應大学の出身ですし、同大出身者にとって大倉山は日吉キャンパスに近い身近な街であり、シンボルとなる記念館や坂道と丘、そして洋風建築が似合うイメージも、作品の舞台にしやすかったのだろうと想像されます。
※参考:マンガ「夏のあらし」についてと、実際に戦前は「大倉山高等女学校」が存在していたことなどは「わがまち港北2」(平井誠二・林宏美、2014年)の「第142回 舞台は大倉山高等女学校~高野平の物語」に掲載されています
大倉山にあった海軍拠点の記憶と末路
洋風建築が似合うという街のイメージを創り出し、今では大倉山の象徴的な建築物となった「大倉精神文化研究所」(1932年完成、1984年の市有化後は「大倉山記念館」)。
この建物は戦中の1944(昭和19)年夏ごろから終戦となる1年後まで「海軍気象部」が“疎開”のために賃借し、分室として使っていた歴史があります。
日本の敗戦直後に海軍気象部分室で勤務した技術者らの“その後”の苦難を描いたのが劇作家・久保栄(1900年~1958年)による戯曲「日本の気象」(1953年)。今から70年以上前の作品です。
真佐子 そこが、冷酷なのよ。中尾技手は。夏ちゃんはね、あんな臭いのする病室へ、中尾技手に来てもらいたくないのよ。汚ないところを見せないで、死んでいこうとしているだけよ。会いたいって気もちは、全身があらわしてるわ。
中尾 ――僕の命がけでつくった調査資料が、こうして、どんどん灰になっていく。歯をくい縛って、これを見つめているのが、いちばん夏枝をとむらうことになるんだよ。
次第に視野が明るんでくるなかに、遠い電車の音が聞こえる
真佐子 (中尾の横顔を見守っていたが、急に)あ!
中尾 何?
真佐子 嬉しい。いま、中尾技手が、行こうかなと思ったでしょ。
中尾 ううん。
真佐子 嘘。そういう顔をしたわ。そうでしょ。
中尾 (無言――うなずく)
真佐子 いま通ったの、始発ね。じゃ、行きましょう。さあ。
中尾 だめだよ。僕は、八時に当直を引き継いでからでなくちゃ。
真佐子 じゃ、あたし、寮に寄って、さきに行ってるわ。――きっと来るわね。
中尾 うむ。
※中尾=海軍気象部の調査研究員・中尾敬吾、真佐子=同女子技工士・堀川真佐子
(久保栄「日本の気象」第1幕)
敗戦間もない夏の明け方、大倉精神文化研究所の建物前で、海軍気象部の調査研究員「中尾敬吾」と同僚の技工士「堀川真佐子」が気象部の書類を夜通しで焼きながら、言葉を交わしている場面が上記の引用です。
かつて中尾の恋人だった「夏枝」が広島で原爆によって被災し、命からがら東京の病院まで逃げたところへ知人の真佐子が見舞いに駆け付けたものの、中尾は訪問を渋ります。
戦勝国の米軍が来る前にあらゆる書類を焼却するよう上官から命令された研究員の中尾は、昔の恋人が原爆で死に近づいているという現実の直視を避けるように、燃える火を見ながら「僕の命がけでつくった調査資料が、こうして、どんどん灰になっていく」とやり切れない思いを口にします。
大倉山にわずかな期間だけ存在した海軍関連施設での“証拠隠滅シーン”から始まるこの戯曲は、1幕と5幕が大倉精神文化研究所を舞台としており、1953(昭和28)年に「劇団民芸」(1950年~)が上演し、半世紀近く経った2004(平成16)年2月には作者・久保栄の没後50年記念として「東京演劇アンサンブル」(1954年~)が再演しました。
今では演劇として観られる機会はほぼありませんが、戯曲として1冊の本に残され、昭和20年代の研究所風景や海軍時代の末路を知ることができる点で、きわめて貴重な作品です。
※参考:「わがまち港北」(平井誠二、2009年)の「第45回 舞台は大倉山記念館」で戯曲「日本の気象」について、「第44回 終戦秘話-その5-大倉山と海軍気象部」と「第69回 終戦秘話-その7-米ソの暗号を解読せよ!」では海軍気象部が借りていた頃の大倉精神文化研究所(大倉山記念館)について、それぞれ詳しく紹介しています。また、2008年に東京演劇アンサンブルが行った「日本の気象」公演時の写真や案内チラシは早稲田大学演劇博物館の公式サイト内に掲載されています
平成初期の街を舞台に宮本輝が長編
昭和時代の戦後作品は「後編(人物編)」で紹介し、ここでは一気に平成に入って間もない頃の長編小説に移ります。
1990(平成2)年3月から11月まで全国15の地方新聞に連載された宮本輝(1947年~)の「ここに地終わり海始まる」は、幼少期に発病した結核で18年間にわたって北軽井沢の療養所で過ごしてきた「天野志穂子」が主人公。
24歳を迎える直前に志穂子が大倉山の自宅へ戻ってきたところから物語が始まります。
「私、十八年間も、お父さんやお母さんに心配かけて、やっと退院したらもう二十四歳。学歴もなくて、何の取り得もなくて、まだあと一年は薬を飲まなくちゃいけなくて……」
・「何の取り得もない? そんなことはないよ」
(略)
・それから父は、笑顔で志穂子の頭を撫で、
・「お前、初めて泣いたな」
・と言った。
・「初めて?」
・「うん、初めてだよ。お前がこんなに泣いてるのを見るのは、お父さん初めてだね。元気になった証拠だよ。より良く生きようと、本気で考えだした証拠だ。取り得のないのは、このお父さんのほうだ。俺の手柄といえば、何十年も前にこの大倉山に土地と家を買っといたことぐらいかな。うん、その程度かな。可もなく不可もなく、出世から外れて、もう何年もたつ。定年まで、あとちょっとだ。自分でも情けないよ。(略)でも志穂子、お前はそのことで、他の人が十八年間で学ぶことよりも、もっともっと大きくて深いものを知ったに違いないよ。ねェ、志穂子、<いまは誰にもわからない>ってことが、この人生にはたくさんある。六歳から二十三歳まで、病気と闘いながら過ごした療養所での十八年間が、いつか、とんでもない宝物を、志穂子に与えてくれるってことは、いまは誰にもわからないよ」
(宮本輝「ここに地終わり海始まる」)
大倉山駅から急な坂道の上にある自宅への帰り道、志穂子が父の「志郎」とはちあわせ、途中にある公園のベンチで交わされた父と娘による会話のシーンです。
志穂子が大病を克服する「奇跡の源泉」となった一枚の絵葉書をきっかけに、その差出人やそれらを取り巻く人々との愛憎と悩みを抱えながら物語は進んでいくのですが、大倉山に家を買ったことが唯一の手柄だというこの父親はたびたび登場し、志穂子を励まし続けます。
大倉山の家については、「このあたりは高級住宅街なのね。駅からここまでの道に、すごいマンションが何軒もあったわ」「いまは、そんなふうになったけど、この家を買ったときは、このへんはいなかだったの」といった志穂子と友人の会話も盛り込まれており、先見性という点で確かに手柄と呼べるのかもしれません。
主人公が新たな人生のスタートを切る地となった大倉山でのシーンは数多く、都内や信州、北陸と舞台を移しながら進行する物語は、著名な芥川賞作家が手がけた新聞連載小説ならではの分かりやすさと、節目ごとに現れる見どころの多さも含め、一読して後悔のない代表的な長編作品といえます。
大倉山そっくり“小倉山”の双子姉妹
90年代の大倉山を舞台とした作品では、少女漫画雑誌「なかよし」に連載された「ミラクル☆ガールズ」(全9巻、秋元奈美)が挙げられます。
偶然にも先ほどの「ここに地終わり海始まる」と同じ講談社がほぼ同時期に刊行した作品で、大倉山にしか見えない“小倉山”という街に住む双子の高校生「松永ともみ」と「松永みかげ」が主人公の学園漫画。
二人の力を合わせて生み出す超能力で、身近に起こるトラブルを乗り越えていくのですが、単行本全9冊にわたる作品中で“小倉山”が描かれるシーンは多くありません。
一方、日本テレビ系列で1993(平成5)年に放送されたアニメ版では大倉山駅や東横線、当時開業したばかりだった横浜ランドマークタワーなどの風景がたびたび盛り込まれており、90年代の空気感がいっぱい。再放送やDVDに出会える機会が極端に少ない点は残念です。
大倉山に住む女性消防士の成長物語
もう一人、大倉山に住む女性主人公を紹介しましょう。ミステリー作家・佐藤青南(せいなん=男性、1975年~)の初期作品「消防女子!!女性消防士・高柳蘭の誕生」(2012年)で、横浜市消防局に勤務する「高柳蘭」です。
中消防署の北方出張所(中区本牧)をモデルにしたとみられる「湊消防署・浜方出張所」に配属され、新人消防隊員として日々苦闘を続けています。
蘭の自宅は横浜市港北区にあった。東急東横線の大倉山駅から徒歩七分の賃貸マンションで母親と二人暮らしを始めてから、もう十年になる。浜方出張所からはおよそ一五キロ、自転車だと一時間の道のりだ。
・消防学校では、自転車の通勤を奨励される。体力錬成の意味もあるが、それにはもう一つ、水利の確認という大きな目的があった。消防士は当直明けの非番日に管轄区域を回り、消火栓や防火水槽の位置を確認する。そのためには小回りの利く自転車が、もっとも便利というわけだ。
・今朝も午前八時半の引き継ぎ交代の後、二時間ほど走り回ってから帰途に就いたので、すでに陽が高くなっていた。
(佐藤青南「消防女子!!女性消防士・高柳蘭の誕生」)
かつて緑消防署・長津田出張所に勤務し、火災現場で殉職した父「暁(さとる)」の背中を追い、母親と大喧嘩しつつも大学卒業後は消防士の道へ進んだ蘭。
新人として時に無力感にさいなまれ、厳しい環境下で悩みくたくたになりながら、保険外交員の母と暮らす大倉山の自宅から本牧の消防出張所まで1時間以上かけて自転車で通い続けます。
本作は中区を舞台の中心としており、大倉山のシーンは多くないのですが、ある日、母と親子喧嘩になってしまい、蘭が頭を冷やしに夜の大倉山公園へ一人で散歩に出掛ける場面が描かれています。
ここで蘭の同期隊員で互いにライバル視する「小野瀬大樹」とばったり出会い、小野瀬が子どもの頃から小机の近くに住んでいて、たびたび大倉山公園まで往復約10キロをランニングをしていることを明かしました。
「当直明けの非番日に、よくぞこれだけ走ろうと思うものだ。感嘆というよりは、呆れて吐息が漏れた」とは蘭の心の声。重要な登場人物のうち実は2人が港北区に関係していたことになります。
横浜市の消防隊員像をリアリティ溢れる形で細やかに描いた本作で、ヒロインの蘭が大火災と対峙し、危機に陥りながらも成長していくドラマ性が共感を集めたのか、翌年には続編となる「灰と話す男 消防女子!!高柳蘭の奮闘」(2013年、文庫版では「ファイアサイン 女性消防士・高柳蘭の奮闘」に改題)を刊行。
さらには漫画版「消防女子!!」(原作・佐藤青南/作画・上遠野陽一、全2巻、2013年)も誕生しています。
続編や漫画版では大倉山のシーンをほとんど見つけられないのですが、身近な場所に住む新人消防士であることを頭の片隅に置いて読み進めると、物語がより興味深くなることは間違いありません。また、横浜市民には馴染みの深い場所が登場する点でも近さを感じるでしょう。
そして読後は近所にある港北消防署や消防出張所に勤務する隊員に「いつもありがとう」と思わず声を掛けたくなるはずです。
乱歩賞作家が描いた“街の秘密組織”
ミステリー作家の川瀬七緒(ななお=女性、1970年~)は、推理作家の登竜門と言われる「江戸川乱歩賞」を2011(平成23)年に受賞しており、当時の港北区役所が住民向け冊子に区内在住者として受賞インタビューも試みています。
今年(2024年)8月時点で19冊におよぶ書籍を発表しているなかで、2014(平成26)年に刊行された4作目「桃の木坂互助会」の舞台に据えたのは、大倉山駅を最寄りとする「桃ノ木坂町」という架空の街でした。
小雨が降るなか、光太郎は大倉山の駅へ向かっていた。(略)
・今日も日の出とともに武藤を叩き起こし、それから眠らせないように電話をかけていた。いつもと変わらぬ戦法を続けていたが、曹士から緊急連絡が入った。男は、定刻になっても駅に現れていないらしい。急遽、偵察班を自宅へまわしたところ、八時十五分過ぎに慌てて家を出たとの報告が入った。おそらく、光太郎がかけた最後の電話の直後に一瞬で眠りに落ちたのだろう。崩れるように横たわる姿が目に浮かぶようだった。
(川瀬七緒「桃の木坂互助会」)
桃ノ木坂町に20年以上住み、60歳以上で入会資格を得られるという「桃ノ木坂互助会」は表向きには老人会的な団体なのですが、会長をつとめる70歳の「熊谷光太郎」を中心に会員から選抜された9人による秘密の「特務隊」を組織。
地元商店主を中心とした下は67歳から上は81歳までの“曹士”が海上自衛隊海曹長の経験を持つ会長の光太郎に率いられ、街に張り巡らせた監視網と結束力で街の迷惑住民を改心させ、改心が見られない場合は精神的に追い詰め、桃ノ木坂町から追い出す役割を担います。上記引用はそんな“特殊任務”を遂行中の一場面です。
ここに登場する「武藤」は渋谷の婦人服メーカーにつとめる31歳のアパート住民。曹士たちによる追跡調査の結果、男は粗大ゴミの投棄や年寄りへの暴言と悪態に加え、倫理観の欠如、さらにはハトや野良猫を虐待している疑いもあり、特務隊の標的となりました。
攻撃任務は高齢者らしく明け方から始まり、朝4時26分にカツラを着用して変装した曹士が隣に住む老人の部屋と間違ったふりをして、武藤のアパートのインターホン押下とドアノック連打を交互に実施。
激怒した男が起きて出てくると「あんたは息子さん?」ととぼけ、その15分後には標的の携帯電話へコールを規則的に3度繰り返して再眠を妨げ、これを週前半の月・火・水の3日間にわたって毎週定時に行います。
睡眠不足で遅刻寸前の標的が大倉山駅へ走り込んでくると、今度はパン屋に潜んでいた曹士たちが一気に出てきて「パスモー押っつけたのに改札が閉まった」とか「代々木まで370円つうボタンが見つからない」などと騒いで改札機と有人改札口を塞ぎ、男が予定の電車に乗れないよう妨害。会社への度重なる遅刻で信用失墜を促そうという企てです。
思わず吹き出してしまう“特務”の数々ですが、自治会・町内会などの地域活動に関わったことがあれば、この男のように追い出したいほど迷惑な住民がどの街にも一人や二人は頭に浮かび、特務隊の活動に共感してしまうのでは……。
本作には光太郎を中心とした桃ノ木坂互助会に加え、もう一方の主人公として“幽霊代行コンサルタント”を名乗りDV男などへの復讐を代行する27歳の「三矢沙月(みつやさつき)」も登場。いち騒動が勃発し、最後には桃ノ木坂町で何十年も誰も気づかなかった驚きの事実も明かされます。
川瀬の作品群では、遺体に残された“虫”から犯行に迫る「法医昆虫学捜査官」(2012年~2019年、現時点で7冊)を筆頭に、「賞金稼ぎスリーサム!」(2019年~2020年、現時点で2冊)や「仕立屋探偵・桐ヶ谷京介」(2021年~2022年、現時点で2冊)といったミステリーシリーズが知られますが、「桃ノ木坂互助会」のように高齢者と10代~20代の若者がダブル主人公となっている単体作品も見どころ。
港北区内が舞台ではありませんが、グループホームを舞台とする「フォークロアの鍵」(2017年)や、高齢の職人と高校生が地方都市に変革を巻き起こす「革命テーラー(単行本時は「テーラー伊三郎」)」(2017年)では、作者が巧みに描く頑固だけどどこか茶目っ気を残す老人像に心を奪われ、思わず笑みがこぼれます。
一方で、呪いや因習にとらわれ殺人さえもいとわない“恐ろしい老人集団”に出会うなら、江戸川乱歩賞作の「よろずのことに気をつけよ」(2011年)や、よそ者の排除志向が強い田舎の集落を舞台にした「うらんぼんの夜」(2021年)といったミステリーも。
「桃ノ木坂互助会」以降、港北区を舞台とする川瀬作品は10年近く見られないのですが、今年5月に発売された最新ミステリーの「詐欺師と詐欺師」では東白楽の住宅地が登場しており、少しずつ近づいてきたのかと期待させられます。
恋人の住むマンションを訪ねると…
2015(平成27)年に刊行された成田名璃子(なりこ、1975年~)の「不機嫌なコルドニエ~靴職人のオーダーメイド謎解き日誌」では、ほんの少しだけ大倉山が登場しています。
舞台は横浜・元町にあるオーダーメイド靴店「コルドニエ・アマノ」。ヒロインでシューズデザイナーを目指す「湯浅京香」が、大倉山に住む恋人で今は神戸に赴任しているはずの「雅也」のマンションを訪ねてみたら、まったく知らない女性が出てきて、裏切りを知るというシーンです。
後にこの男は女癖が悪いと知人から明かされ、本人からは1年半前から主人公の京香を裏切っていたことを伝えられます。その理由や秘密はラストに語られるのですが、「桃ノ木坂互助会」の迷惑男とは違った形の“ダメな男”が大倉山に暮らしていることになってしまいました。
以上で「前編(作品編)」は終了です。続く後編の「<港北舞台の文芸作品3>多彩な芸術家が言葉を紡ぎ残した大倉山の10人」では、作家の中薗英助や安西篤子、建築家の隈研吾ら大倉山に住むなど街と深く関係した人物と作品を紹介しています。
引用・参照した書誌の詳細
(※)書誌詳細やリンク先は2024年8月時点のものです。入手困難な書誌に限り図書館の書籍案内ページにリンクしました
- ヒノマル(古市憲寿):2022年文藝春秋(単行本)。本稿は2022年2月発行の文藝春秋(単行本)1刷を引用した【出版社ほか入手容易・デジタル版有/横浜市図書館貸出有・港北図書館所蔵】
- 夏のあらし(全8巻、漫画)(小林尽):初出2006(平成18)年~2010(平成22)年スクウェア・エニックス「月刊ガンガンWING」「月刊ガンガンJOKER」連載、2007(平成19)年~2010(平成22)年スクウェア・エニックス(単行本)。本稿は2009(平成21)年4月発行の第5巻初版を引用した【出版社ほか入手可能・デジタル版有/横浜市図書館貸出有・港北図書館所蔵】
- 日本の気象(戯曲)(久保栄):1953(昭和28)年新潮社(単行本)、1962(昭和37)年三一書房「久保栄全集(第4巻)」所収、2008(平成20)年影書房版。本稿は三一書房「久保栄全集(第4巻)」の1962(昭和37)年5月発行第1版を引用した【出版社(影書房)在庫不明/横浜市図書館(影書房版・久保栄全集第4巻)貸出有/国会図書館デジタルで久保栄全集第4巻を公開】
- ここに地終わり海始まる(宮本輝):初出1990(平成2)年に地方新聞15社の紙面で連載。1991(平成3)年講談社(上・下)(単行本)、1994(平成6)年講談社文庫(上・下)、2008年講談社文庫新装版(上・下)。本稿は2008(平成20)年5月発行の講談社文庫新装版(上)第1刷を引用した【出版社ほか入手可能・デジタル版有/横浜市図書館貸出有】
- ミラクル☆ガールズ(全9巻、漫画)(秋元奈美):初出1990(平成2)年~1994(平成6)年講談社「なかよし」連載、1991(平成3)年~1994(平成6)年講談社コミックスなかよし(単行本)、2015(平成27)年講談社なかよし60周年記念版(単行本再発売)。本稿は単行本の各版を参照した【出版社在庫不明・デジタル版有/横浜市図書館貸出有】
- 消防女子!!女性消防士・高柳蘭の誕生(佐藤青南):2012(平成24)年宝島社(単行本)、2013(平成25)年宝島社文庫。本稿は2013年6月発行の宝島社文庫第1刷を引用した【出版社在庫不明・デジタル版有/横浜市図書館貸出有】
- 桃の木坂互助会(川瀬七緒):2014(平成26)年徳間書店(単行本)、2016(平成28)年徳間文庫。本稿は2014(平成26)年2月発行の徳間書店単行本初版を引用した【出版社在庫不明・デジタル版有/横浜市図書館貸出有】
- 不機嫌なコルドニエ~靴職人のオーダーメイド謎解き日誌(成田名璃子):2015(平成27)年幻冬舎文庫(書き下ろし)。本稿は2015年5月発行の初版を参照した【出版社ほか入手可能・デジタル版有/横浜市図書館貸出なし】
(※)この記事は「新横浜新聞~しんよこ新聞」「横浜日吉新聞」の共通記事です
【関連記事】
・<港北舞台の文芸作品3>多彩な芸術家が言葉を紡ぎ残した大倉山の10人【後編】(2024年9月9日)※リンク追記
・連載「港北が舞台の文芸作品」の一覧(2024年6月~)
・<港北が舞台の文芸作品1>若さと虚無を描いた芥川賞3作家の“慶應日吉三部作”(2024年6月27日、太平洋戦争についても)