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30年来の悲願成就を地元で祝いました。

江戸期から“伝説の橋”として広く知られた岸根町の「琵琶(びわ)橋」跡地で、橋に使われていた石の遺物展示と案内板の整備を終えたことを記念し、町内の有志らが先月(2025年)6月28日に琵琶橋跡の至近にある結婚式場「ソシア21」(岸根町)で祝賀会を開き、整備に至る経緯などが報告されました。

「琵琶橋遺跡完成記念祝賀会」は琵琶橋からほど近い式場の「ソシア21」(岸根町)で6月28日夜に開かれた

祝賀会には岸根町の関係者50人超が参加した

琵琶橋は「根川」と呼ばれた農業用の水路に架けられていた石の橋で、平成初期ごろまでには上部に道路が通るなどして暗渠(あんきょ)となって橋の役割を失い、その後は遺物として石だけが残されていた状態。

細長い石をかけただけの小さな琵琶橋は、単に“石橋”とも呼ばれて目立つ存在ではなかったものの、鎌倉幕府の征夷大将軍・源頼朝(よりとも)にまつわる伝説や、琵琶法師(びわほうし=盲目の僧)にまつわる言い伝えが知られ、1995(平成7)年ごろから地元の有志がモニュメントをつくる検討を始めています。

1960(昭和30)年5月に錦正社から刊行された「書かれない郷土史~武蔵・相模を中心とした民俗資料」(川口謙二著)では琵琶橋を取り上げ、昔は丸太を二本で渡していたことや、ビワの木を伐(き)って橋にしたので名が付けられたなどのエピソードを詳しく紹介している(写真は同書から引用)

ただ、宅地化や土地所有者の変更などもあって跡地整備はなかなか進められず、構想は有志の孫や子の世代に引き継がれていました。

近年になって跡地所有者が変更し、新所有者による協力が得られるとともに、琵琶橋として使われていた石に刻まれていた文字の解読調査も進展。今年3月下旬には石の展示スペースと案内板の整備を終えています。

今年(2025年)3月下旬に整備を終えた「琵琶橋」の跡地は土地所有者の協力で公開が実現した(2025年3月)

展示されている3つの細長い石に掘られている文字は、展示を機に近年解析されており、今回あらためて公開された

祝賀会には岸根町の関係者ら50人超が出席し、跡地整備までの経過や、歴史的な位置付けなどが説明されるとともに、地元の「岸根囃子(はやし)連」が会場を盛り上げました。

岸根町町内会三田敏幸会長は、「町内の若手が今回の企画の段取りをしたということで、大変ありがたい。今後も昔の古い記憶を後世に伝えていきたい」と話します。

琵琶橋保存を最初に構想した世代から見て息子や孫にあたる岸根町の若手が町内の事情を知る人にヒアリングするなど研究し、保存へ向けた調整も行ってきた。写真は今回の史跡公開を主導した岸根町の市川直樹さんと岩田一清さんが琵琶橋の事情をよく知る高橋稔さんに話を聞く様子

同町内会の顧問で祝賀会の発起人代表をつとめた浜田正二さんは、「子どもの頃の印象は、鳥山川から引かれた水が、とうとうと流れる川に架かる石橋で、田んぼから帰る際、泥まみれになった手足を洗う場所でもあった。当時は頼朝や琵琶法師の伝説を知る由(よし)もなかった」との思い出を披露していました。

岸根町の重要な遺産として「岸根音頭」を唄って会場で披露した浜田さん(右)と岸根町町内会の三田会長(左)

来賓として参加した嶋村公(ただし)県議は、琵琶橋では250年前の名前が刻まれた石の遺物が展示されていることに触れ、「私の住む地域でもかつてラジウム温泉(大正時代に樽町で発見された綱島温泉の源泉)が湧出し、その頃の人が石碑を残してくれた。歴史を伝えるために石という長持ちするものに文字を刻んでくれ、いいことをしてくれたと思う」と感慨深そうに話します。

佐藤祐文市議は「長い年月をかけながらも、先輩方の思いを受け継いだ若手の方々がしっかり史跡を整備されたことは大変素晴らしいこと」とねぎらい、「私自身、生まれも育ちも城郷地区であり、仲間の1人として皆さんと共に歩んでいきたい」とあいさつしました。

来賓としてあいさつした嶋村県議(右)と佐藤市議

また、港北区竹下幸紀区長からは「『関東の みすま耕地の びわの橋』という、かの太田道灌(どうかん)が詠んだとされる現地案内板を拝見し、しばし琵琶橋がかかる往年の美しい風景を思い起こしていました。整備された石を目当たりにし、250年の歴史とともに、地域の皆さまの熱意と尽力に深い感銘を受けました」との祝電が届けられました。

太田道灌が詠んだ「みすま耕地」とは

鎌倉街道について講演する大倉精神文化研究所の平井理事長

祝賀会では琵琶橋跡地の整備構想を後方から支援してきた大倉精神文化研究所平井誠二理事長が講演し、琵琶橋の近くを通っていたとみられる「鎌倉街道」と、太田道灌が詠んだ句にある“関東の みすま耕地”がどこであったのかについての考え方を紹介。

平井理事長は鎌倉街道については古すぎて学問的には分かっていないといい、「六角橋や三枚(さんまいちょう)町、篠原町など周辺地域と協力し、調査していってほしい」と話します。

太田道灌が詠んだ「みすま耕地」について場所の考え方を示す平井理事長

“みすま耕地”は「三角耕地」「三隅耕地」「三島耕地」などとも呼ばれ、鶴見川の上流から肥沃な土が流れ、両岸に堆積したことで少ない肥料でも多くの収穫を得られたとも言われる横浜有数の穀倉地帯

この肥沃なみすま耕地は新羽町新吉田町にも伝わっており「三角形だとすると大豆戸町や大倉山(太尾村)の耕地も入るかもしれない」との見方を紹介していました。

祝賀会は岩田正吾さんによる閉会の言葉で締めくくられた

最後には参加者全員で記念撮影が行われた

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【参考リンク】

琵琶橋の跡地と案内板の場所(グーグルマップ、岸根交差点近く)

シリーズわがまち港北「第67回 琵琶橋を語り継ぐ」(大倉精神文化研究所、20年以上前から保存・公開の動きがあった)