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市の公園として生まれ変わることになりました。

神奈川県篠原台町に所有していた「篠原園地」は、今年(2025年)3月21日に県から横浜市に移譲され、市は園内を改修のうえで来年(2026年)春をめどに市立の公園として公開する計画です。

)当初は見出しを「4月から横浜市に移譲」としていましたが、神奈川県から「篠原園地(宅地及び原野1万9806.07平方メートル、概算評価額45億9897万円)」の寄付を横浜市が正式に受納したのは2025年3月21日付け(2024年度=令和6年度中)でした。そのため見出しや本文を3月または3月21日などに変更しました。お詫びして訂正いたします。(2025年6月4日追記)

篠原園地(現在閉鎖中)の白楽駅側の出入口付近(5月27日)

篠原園地は、1947(昭和22)年に設けられた「知事公舎」のだった場所を1957(昭和32)年から一般に開放を始めたもので、一連の敷地内には青少年向けの県立宿泊施設や幼児向けプール、県職員向けの住宅も置かれていた歴史があります。

しかし、その後に県は1997(平成9)年知事公舎をはじめ、一連の敷地内に置かれていた施設と土地を次々と民間に売却し、宅地化されたことで緑地部分は年々縮小。篠原園地となっている1万9000平方メートル超と、関連する一連の用地だけが残っている状態です。

篠原園地(現在閉鎖中)は桜の名所としても知られる(2024年4月)

篠原園地は県有地ではあるものの規模が小さく、防災面の設備も未整備となっていることなどから県立公園にはなっておらず、公共用の行政財産ではなく売却対象になりうる「普通財産」として保有。

としては知事公舎などと同様に手放したい思いを持つ一方、篠原園地の存続を求める地元の声は強いことから、横浜市に移譲を打診し、2020年ごろから具体的な協議を始めていました。

移譲の話がまとまったことを機に県は昨年(2024年)11月5日から篠原園地の全面閉鎖に踏み切り、老朽化した設備の撤去工事などを開始。

昨年11月5日に全面閉鎖して神奈川県が老朽化した施設の撤去工事を始め、横浜市への移譲が完了した今年3月21日からは引き続き市が公園化に向けた工事を行っており、一部が公開されるのは2026年春ごろとなる予定(5月27日)

今年3月21日付けで移譲が正式に完了し、今度は市が「近隣公園」(一番小さな「街区公園」の1つ上のレベル)として公開するために遊具広場の改修を行っており、市みどり環境局によると現在工事を実施している部分は来年度早々(2026年4~5月ごろ)にも公開する計画です。

市は引き続き、来年度も園内の中間あたりにある“ケヤキ広場”やベンチ、照明、舗装などの改修を予定しており、市の公園として全面公開されるのは翌年度早々(2027年4~5月)となる見通し。新たな公園名については地元の意見を聴きながら決めていく考えです。

白幡池公園の住所は神奈川区だが篠原園地とつながっている。もとは農業用水の溜池だったが、水が汚染されて用水池として機能しなくなり、1968(昭和43)年に横浜市が公園として整備した。水とふれあえるだけでなく、現在も池で釣りができるな貴重な公園となっている(資料写真、2023年)

篠原園地とつながっている神奈川区側の「白幡池公園」(4773平方メートル、1968年公開)は以前から市が管理しており、釣りや水遊びが可能な旧“ため池”と、その水源となる緑を残す2つの市立公園が区の境で並ぶことになります。

内山知事が暮らした広大な公舎

篠原園地の歴史を振り返るうえで欠かせないのが、終戦後に公選で初代の神奈川県知事に就いた内山岩太郎知事(1890年~1971年)です。

戦前のこの地には、第一銀行(第一勧業銀行を経て現在みずほ銀行)の頭取や横浜支店長をつとめた石井健吾氏(1874年~1945年)の別荘が建っており、戦後に売りに出された物件を気に入った内山知事は、元外交官らしく「外国人客を招待するために必要」といった理由を挙げて県が知事公舎として購入することを決定。

戦前の1943(昭和18)年までに発行された「三千分一地形図」では、戦後に知事公舎・篠原園地となる場所は「石井別荘」と記されている。この頃、篠原台町周辺に住宅がほとんど見られず、山林に囲まれた別荘だったことが想像される。一方、白楽駅から六角橋方面にかけての一帯には建物の記載が多く賑わっている(昭和4年2月測図・昭和18年修正版「横浜市三千分一地形図・白幡」の一部=横浜市建築局の公開ページより)

和風建築の「和館」を知事が普段住む公舎とし、60メートルの廊下でつながった「洋館」は海外要人を迎えるための迎賓館として使いました。

石井氏が書生をつとめた渋沢栄一の邸宅をモデルに建てたといわれる戦前建築の重厚な和館は、「金と技術ふんだんに」「とにかく広い」(1982年「残照 神奈川の近代建築」朝日新聞横浜支局編)と評され、周辺の環境も「多い樹木 野鳥天国」(同)で自然味にあふれていると1980年代初頭の時点で紹介されるほど。

同公舎を気に入って暮らしていた内山知事に対し、野党系の県議会議員が公害に関する話題で「港北区のような空気の清浄な地区に住んでおられる内山知事には、おわかりにならぬでございましょうが」(1965年2月)と皮肉を述べるなど、周辺環境が良好であることは広く知られていたようです。なお、内山知事は自宅も日吉駅近くの区内でした。

1963(昭和38)年に発行された「三千分一地形図」では現在の篠原園地が「篠原公園」と記されており、当時はそうした呼び方となっていた様子。この時点ではまだ幼児用プール(1965年~2018年)は完成していない。現在の篠原園地周辺は「八町山」と呼ばれ、この丘の部分は1939(昭和14)年に神奈川区を分割する際、港北区内として組み込まれた(篠原町→のちに篠原台町など)。一方、白幡池や白楽駅など平地部分は神奈川区に残された(昭和38年10月修正版「横浜市三千分一地形図・六角橋」の一部に区境を追記するなど加工=横浜市建築局の公開ページより)

その後、この優れた自然環境を県民に還元しようと1957(昭和32)年に庭の一部(現在の篠原園地)を一般公開し、1964(昭和39)年には一連の敷地内に宿泊研修施設の「県立国際少年少女会館」(のちに「県立篠原台青少年の家」)、1965(昭和40)年には幼児用プール(2018年廃止)を相次いで設置。このほか、県職員向けの住宅「篠原アパート」も設けられています。

1964(昭和39)年6月に神奈川県が篠原園地内(篠原台郵便局付近)で新築した「県立国際少年少女会館」は、鉄筋コンクリート地下1階・地上2階建てのクリーム色をした建物で37人が宿泊可能だったという。周辺の自然環境は子どもの宿泊学習にも適した場所だった。1974(昭和49)年4月から「県立篠原台青少年の家」に変わったが、1998(平成10)年3月限りで廃止。その後は「県青少年課篠原台分館」として地域向け施設などとして使われ、2012(平成24)年3月に利用を停止。2015(平成27)年には約3000平方メートルの敷地とともに民間企業へ売却され、現在は跡地に一戸建て住宅が並ぶ(1966年3月日本レクリエーション協会発行「レクリエーション」第65号=国会図書館デジタルコレクションより)

ただ、1967(昭和42)年に内山知事が退任して以降、広大で重厚な知事公舎が次第に敬遠されるようになり、同年には迎賓館として使っていた洋館が解体され、1969(昭和44)年にはマンション化(現「白楽ハウス」)。

昭和の末期、1988(昭63)年に撮影された航空写真にはマンションに変わった知事公舎「洋館」(迎賓館)を除きほとんどが写っている。グーグルマップが提供する現在の航空写真と比べると、各施設・敷地を民間に売却し続けた結果、緑地帯が削られていったことがわかるはず(1988年11月27日撮影の国土地理院空中写真を新横浜新聞が建物に関する情報を加えるなど加工した)

県の厳しい財政状況もあって90年代後半には公舎の和館敷地ごと民間に売却され、こちらも1999(平成11)年にマンション(現「グランフォルム横濱白楽」)となり、その他の県有施設と敷地も相次いで売られ、すべて住宅に変わっています。

そして最後に残されたのが旧公舎のだった篠原園地。公共団体間での移譲が決まったことで、辛うじて篠原台町象徴する緑地エリアがこの先も残ることになりました。

【関連記事】

【歴史まち歩き】知事邸跡と緑の丘、茂吉の名残、ドラマロケ地「篠原」を巡る(2021年9月6日)

篠原園地に接する「動物愛護協会」が窮地、移転余儀なくされるも資金不足(2023年6月1日、市への移譲に伴う余波)

<レポート>篠原園地で3年ぶり「森の音楽会」、大学オケ演奏で指揮者体験も(2022年11月30日、園内でイベントも行われている)

【参考リンク】

篠原園地の紹介(神奈川県横浜川崎治水事務所による案内ページ)()本記事の公開後、6月3日に神奈川県が篠原園地の紹介ページ突然消去したので見られなくなりました。アーカイブページ(Wayback)に消去直前の内容が記録されていますのでご覧ください