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江戸期から広く知られた伝説を残す橋の跡が正式に公開されています。

岸根町で1980年代に消えた「琵琶(びわ)橋」という小さな橋が置かれていた場所で、橋に使われていた石の遺物を公開するとともに、先週(2025年)3月21日には案内板も完成しました。

岸根町の琵琶橋跡に完成した案内板と橋に使われていた石(3月21日)

公開された遺物は、橋として使われていた最大2.5メートルほどの細長い花崗岩の石など5点で、このうち3つには「明和五年(1768年)子(ね)年」「文化十三(1816年)四月」「●治(明治)十九年」という年号とともに、「市川」「横溝」「濱田」「高橋」「浅間」「岩田」などと読める苗字の氏名が刻まれています。

石の脇には「名所案内『琵琶橋』」と題した案内板を設置。室町時代後期の武将・太田道灌(どうかん)がこの地を訪れた際に詠んだとされる「関東の みすま耕地の びわの橋」という句を紹介し、橋の由来や、丸太橋から石の橋に架け替えられた1768(明和5)年から250年超にわたる歩みを伝えました。

1967(昭和42)年ごろの「琵琶橋」の姿

【写真・文章ともに1967(昭和42)年10月株式会社有隣堂発行、読売新聞社横浜支局編「神奈川の伝説」から引用

横浜駅から川和行バスで約二十分「岸根」の停留所で下車する。港北区岸根町。きれいに舗装されたバス通りから右に折れると、完全な農村風景が開ける。小川ぞいに十五メートルも歩くと、ヤブに囲まれた小さな石橋に行きあたる。幅三十センチ、長さ一・八メートルの石材を三本並べて渡したもので、作った当時は平らだったろうが、長年にわたって踏まれ、今は三本がチグハグに傾き、コケむしている。下の小川は名なしで、今にも途絶えそうな流れがチョロチョロと川底を洗っているが、これでも岸根のたんぼにとっては、唯一の命水という。

今は暗渠も、かつて鎌倉街道と源頼朝

琵琶橋は「根川」と通称された農業用の水路に架けられていた橋ですが、この水路は平成初期ごろまでには上部に道路が通されたり、ふたをして歩行者などが通行できるようにしたため、地上部からは見えない「暗渠(あんきょ)」に変わり、同時に橋の役割も失われたものです。

かつて根川と呼ばれた水路は現在、多くが道路の下などを流れているため存在に気づきづらい(3月21日)

新横浜1丁目に近い「そばの陶芸館(現在休業中)」付近ではかつての“根川”がコンクリートで整備されながらも小川のように残されている(3月21日)

もともと細長い「石」をかけただけの小さな琵琶橋は、単に“石橋”とも呼ばれ、近年は目立つ存在ではありませんでした。

しかし、江戸期以降には“伝説の史跡”として関東一円に知られ、地元で唄い継がれる「岸根音頭」にも「岸の根(岸根町の古い呼び方)琵琶橋 武蔵の名所」という歌詞が残るほど。

「昔、このあたり一帯は海であり、その岸の根づたいに道が出来た。やがて、海が後退し、田や小川が出来、鎌倉時代になるとこの岸の根の道が鎌倉と東国を結ぶ鎌倉街道となった。この街道が琵琶橋を通っていたと言い伝えられている」(1976年港北区老人クラブ連合会「港北百話~古老の話から」)という地理的な重要性もありました。

琵琶橋跡の横を通る市道(菊名第244号線)の一部は鎌倉街道だったとみられている(3月21日)

そのためか、琵琶橋には鎌倉幕府の征夷大将軍・源頼朝(よりとも)にまつわる伝説や、琵琶法師(びわほうし=盲目の僧)にまつわる言い伝えが江戸期の「新編武蔵風土記稿(むさしふどきこう)」にも盛り込まれており、橋や川が残っていた昭和期までは名所として書籍などで定期的に紹介されています。

これらの伝説は、源頼朝が鎌倉への帰り道に通りかかり、一人の琵琶法師に出合って琵琶をひかせて休憩したというものや、琵琶法師や琵琶(楽器)に関する内容が5つほど伝わっています(下記囲み参照)。

琵琶橋に伝わる伝説

  • 源頼朝がこの場所で琵琶法師(盲目の僧)に琵琶(楽器)を奏でさせて休憩した
  • 目が見えないはずの琵琶法師が杖で叩いただけで橋の木の名を言い当てた
  • 盲目の人が背負っていた琵琶を橋のようにかけて渡ろうとしたがバランスを崩し転落死した
  • 盲目の人が琵琶を抱えたまま小川に落ちて死んでしまったが、所持していた琵琶があたかも橋を架けたかのように残っていた
  • 盲目の人が京の都へ上ろうとしてこの橋のところで賊(ぞく=盗賊)に殺された。賊が恐ろしくなって琵琶をここに投げ捨て、その後は夜になると憂いを帯びた琵琶の音が聞こえることがあると言われ、この橋を馬が通るときは必ず脚などをケガするようになった

(「港北百話~古老の話から」などによる)

岸根町の有志が30年かけて整備

伝説の地として知られた琵琶橋でしたが、廃された時期については「1980年代」ということまでしか分かっていないほど、近年は忘れ去られた存在。橋に使われていた石も半ば放置されるような形で現地に残されました。

今から30年以上前の1992(平成4)年11月に岸根囃子連中が発行した記念誌「岸根の囃子」には当時の「琵琶橋(ビワ橋)」の写真が残されており、この時点で橋としての役割を終え、石だけがそのまま残されていたとみられる(記念誌「岸根の囃子」より)

こうした状況に対し、地元の岸根町内では有志1995(平成7)年ごろから橋の跡や伝説を知らせるモニュメントをつくる検討を始めるものの、付近の土地所有者が変わるなどして難航。

この計画は、平成期に構想した親の世代からその子らに受け継がれるとともに、近年になって新たな土地所有者から協力を得られるようになり、橋に使われていた石の公開と案内板の設置が実現したものです。

かつて橋の横に家があったことから「びわ橋」の屋号で呼ばれた岩田家の出身で、現在は不動産業「ビルコ」を営む岩田清さん岩田一清さん親子は、二代にわたってモニュメント設置へ向けて奔走してきました。

ともに“びわ橋”の家に住んだ経験はないといい、「屋号よりも、岸根の史跡である琵琶橋と伝説を現地に残せたことがなにより嬉しい」と岩田清さん。父親から構想を引き継いで実現にこぎつけた一清さんは「これも使命と思って動いてきました。皆さんのお陰で完成し、ほっとしています」と笑顔を見せました。

岸根町内の有志が30年超にわたって構想し、土地所有者と歴史に詳しい区内の関係者も協力して遺物の保存と説明板の設置が実現した(3月21日)

また、案内板に載せる説明文を担当した市川直樹さんは、祖父の市川茂さんが残した草稿を受け継ぎ、最新の調査結果を踏まえて執筆。「盛り込みたい内容は多数あったのですが、スペースも限られるなか、祖父の思いも踏まえながらつくりました」と明かします。

案内板の完成を見届けた岸根町内会の前会長で顧問の浜田正二さんは「所有者の方に場所を提供いただき、そして(町内の)若手である市川直樹さんと岩田一清さんが力を尽くしてくれたからここまで来た。この史跡が末永く残るよう、これからも皆さんのお力添えをいただければ」とあいさつ。

調査に協力するなどして長年にわたって史跡を見守ってきた大倉精神文化研究所平井誠二理事長は「岸根の皆さんは地域の歴史や文化を特に大事にされている方が多いと感じる。これで次の世代に伝えていくことができるようになった」と話していました。

橋に使われていた石には200年以上前に「岸根村」で暮らしていた人々が協力して橋を設けた証(あかし)として、多くの名が刻まれている(3月21日)

琵琶橋の跡地は「岸根」バス停や岸根交差点から徒歩3~4分、新横浜駅の篠原口駅前から伸びる市道「菊名第244号線」沿いに位置しており、同駅前からは徒歩13分から14分でアクセスが可能です。

岸根町は住民の平均年齢が42.06歳(2020年国勢調査)と区内でも若く、また町内の県立岸根高校は区内外から多くの生徒が日々通ってくる土地柄です。今回のモニュメントと案内板は、町の歴史を多世代に伝えていくうえでも重要な場となりそうです。

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【参考リンク】

琵琶橋の跡地と案内板の場所(グーグルマップ、岸根交差点近く)

シリーズわがまち港北「第67回 琵琶橋を語り継ぐ」(大倉精神文化研究所、2004年の段階でも保存の動きがあった)