【コラム=後編】1964(昭和39)年10月1日の開業から60年を迎える東海道新幹線。港北区における動きを振り返った連載の「後編」では、全国的な話題となった新横浜の駅予定地の“買い占め事件”と、大倉山トンネルで発生した落盤事故を振り返ります。
(前編の「<港北区と東海道新幹線>区内を舞台に3つの“事件”、驚愕のS字計画」もあわせてご覧ください)
開業の5年半前となる1959(昭和34)年4月に「新丹那トンネル」(熱海駅~三島駅間)で始まった東海道新幹線の建設では、港北区が全国から注目を集める出来事が二度にわたって起きています。
何があったのか、新横浜での駅予定地“買い占め事件”から紹介します。
※おことわり:1960年代当時の地名や仮称名では位置を想像しづらいことがあるため、文中や年表(本ページ下部)には現在の地名・行政区名・名称に置き換えたものを優先して使いました(例:東海道新線→東海道新幹線、新幹線横浜駅→新横浜駅、樽町〇番地→樽町〇丁目、太尾町〇番地→大倉山〇丁目、川崎市中原地区→中原区)
新横浜の駅予定地で農地買い占め
「前編」で触れたように、突如として日吉・綱島で国鉄(現JR)による測量が始まり、東海道新幹線の予定ルートとなっていることに住民が気づいたのは開業5年前の1959(昭和34)年11月ごろ。
その一カ月ほど前の10月、菊名駅に近い「篠原耕地」(現在の新横浜駅前一帯)と呼ばれる農地周辺では、不動産事業者の動きが密かに見られるようになります。
大阪の小さな不動産事業者が依頼する形で、菊名の不動産店が篠原町周辺の地主に農地を売るよう訪ね歩き、大型工場が進出するために土地が必要だと説いて回ったといわれています。
“新幹線用地汚職”とも呼ばれる疑惑に発展する動きは、新幹線開業の5年前に始まっていました。
この大阪の事業者は資本金300万円の「日本開発株式会社」で、経営者の中地新吾氏(中地新樹の別名あり=「日本紳士録第52版」)は国鉄の元職員。
同氏は1916(大正5)年2月に香川県で生まれ、34歳だった1949(昭和24)年には出身地から衆議院選挙に出馬して落選した経験も持っており、不動産などいくつかの事業を営み、国鉄関係者も顧客であったようです。
新横浜駅をどの場所につくるかは、1959(昭和34)年の4月から5月ごろの時点で決心していたと「東海道新幹線工事誌・土木編」には残されていますが、この時点では国鉄の限られた幹部以外は知らない秘密事項。予定地周辺住民にも伝わっていません。
そんな重要情報でしたが、なぜか公表前に中地氏らは入手していました。
時価の5倍で買い、さらに5倍で売却
当時の神奈川新聞によると、中地氏らは1坪(3.3平方メートル)あたり時価1000円から2000円とされていた建設予定地などの農地を平均7500円で60人の地主から約10万坪(33万平方メートル)を現金払いで購入。
このうちの2万坪(6万6000平方メートル)を1坪あたり平均3万8000円から4万円で国鉄に売却し、自らは数億円の利益を得て、国鉄には数億円の損失を与えた、と1962(昭和37)年10月10日付けの紙面で報じています。
篠原耕地という広大な農業地帯に駅ができることをキャッチした一人の不動産事業者が、それを知らない地主らから時価の5倍以上という価格に吊り上げて農地を入手し、国鉄にはさらにその5倍の価格で転売した、というのがこの“事件”の顛末でした。
どうやって情報を入手したのか
新横浜の土地をめぐる“疑惑”が明るみになると、中地氏はどうやって駅の予定地を知ったのかという点や、わずか資本金300万円の会社が莫大な土地購入資金をどこから調達していたのかが世間の大きな関心ごとになりました。
警視庁は汚職の疑いが強いとして密かに捜査に乗り出し、国鉄幹部らが裏で国鉄OBでもある中地氏に情報を流して土地を購入させ、その見返りをもらったのではないか、との仮説で証拠固めを進めます。
そして、中地氏らが農地の買収に乗り出してから3年後の1962(昭和37)年10月、警視庁は目に見える行動に移ります。
同氏が経営する大阪の日本開発株式会社や、同氏の指示で土地買収を手伝った菊名の不動産店などの家宅捜査に踏み切り、国鉄の用地担当者らからも事情聴取を行いました。
疑惑のなか海外へ消えた張本人
ところが、いよいよ関係者の逮捕へ向けて秒読みかと日本中で注目されていたその時、家宅捜査の後に中地氏が日本を出国し、海外へ渡航したことが2カ月ほど経ってから明らかになりました。
当時の読売新聞は「疑惑の中地日本開発社長“国外脱出” 新幹線用地買収の捜査に痛手」「視察と称し中米へ? 二か月も知らぬ当局」(1963年1月20日朝刊)と報道。
同紙は「捜査当局では海外渡航は一般人の場合は手続きが複雑なのに、わずか一か月後には手続きをすませた手ぎわのよさに驚くとともに、買い占めの黒幕とみられている某有力者が背後で手を貸したのではないかとみている」と記しています。
捜査当局は別の汚職容疑で菊名の不動産店経営者らを逮捕していますが、この経営者は中地氏の依頼で代理契約人として動いていたに過ぎなかったようで、22日後には釈放されています。
疑惑の“本命”に逃げられ、捜査当局の追及は暗礁に乗り上げてしまいました。
「国内の捜査でさえこんなに苦しんでいるのだから、海の向こうのことなど雲をつかむような話。容疑者でもないから、国際警察に依頼するわけにもいかない」(「週刊新潮」1963年2月4日号「アメリカへ逃げた中地社長夫婦~国鉄用地買収事件の幕切れ」)と週刊誌。
捜査当局は決定的な証拠を得られないまま買い占めの主導者を日本から逃してしまい、“黒幕の某有力者”が誰だったのかも明らかにはならず、この「汚職疑惑」の捜査は、疑惑のままで幕引きが図られてしまうことになったのです。
一連の出来事は作家の梶山李之氏が週刊誌記者時代につかんだ情報をもとに「夢の超特急」(1963年)という名で小説としてまとめ、のちに映画化もされています。当時はそれだけ関心の高い出来事でした。
新横浜に西武系の土地が多い背景
この“疑惑”自体が歴史の奥に埋もれつつあった30年後の1992(平成4)年3月7日、朝日新聞の夕刊に「新横浜周辺 最大地主は西武グループ、30年前買い占めがあった」と題した特集記事が掲載されます。
「新横浜プリンスホテル」が開業するのを前に、新横浜にはなぜ西武グループの土地が多いのかという疑問を解明していく内容で、記事内にかつて土地を買い占めに当たったという“大阪のブローカー”が匿名で突如現れたのです。
この時点で76歳となっていた中地氏とみられる人物は、記事中で「私が先代の西武鉄道会長、堤康次郎氏に話を持ち込んだ」と明かしました。
そのうえで、「私は戦前、国鉄の前身の鉄道省大阪鉄道局にいて、新幹線の原型となった『弾丸列車計画』に携わった。新幹線のルートや駅は弾丸列車と同じと確信していた」といい、土地買収の資金6億円は西武グループの創業者である堤康次郎氏から提供を受け、国鉄に転売した分は利益の3割をもらった、というのです。
(※通称「弾丸列車計画」は東京~下関を高速列車で結び、下関から海路を通じ朝鮮半島を経由して中国・満州まで連絡する戦前の構想。日本国内では一部で土地買収やトンネル掘削も行われていたが戦争悪化で凍結)
つまり、新横浜での大規模な農地買収は、自らの経験と知識で駅予定地の位置をつかみ、西武グループの創業者から資金を受けて土地を買い占めたものである、との主張でした。
元総理と中地氏の意外な関係性
疑惑の“謎解き”はこれだけでは終わりませんでした。
朝日新聞の記事から13年を経た2005(平成17)年2月、ジャーナリストの七尾和晃(かずあき)氏が「堤義明 闇の帝国」と題した本を光文社から出版します。
ここでは、当時83歳を超えていた中地氏に取材を試みるとともに、同氏が西武グループの関係者に送ったとされる手紙も入手していました。
同書によると、国鉄で勤めていた頃の中地氏は、のちに総理大臣(1964年~1972年)となる佐藤栄作氏が上司だったといい、退職後は「佐藤栄作の息がかかった情報員」(同書)として動き、西武鉄道の堤康次郎氏がスポンサーとなって新横浜の土地買収に携わっていたとの見方を示します。
そのうえで、「もちろん佐藤栄作と堤康次郎をつなぐ『政府発表前情報』がタダなはずもない。佐藤の代理としてやはり中地自身が駅建設予定地の土地を買い、土地高騰後に売ったカネは佐藤にも大きな収益をもたらした、と中地の手紙には記されている」と紹介しました。
結局は誰も罪に問われなかった
中地氏は日本への帰国後、「埼玉、神奈川と住まいを転々としたが、一時期の生活ぶりは困窮を極めていた」(同書)といい、取材が行われたのは千葉県松戸の団地に隠棲している頃。
昭和30年代半ばには大阪近郊の著名住宅地と東京目黒に豪邸を構え、長者番付(高額所得者の公示)に顔を出していた中地氏も、佐藤栄作元総理と西武グループの堤康次郎創業者がいなくなって以降の生活は苦しくなったのか、同書の筆者が入手した手紙は西武関係者へ向けて自らの“実績”を強調して援助を求める内容だった可能性があります。創業者亡き後の西武グループにはあまり相手にされなかったのかもしれません。
手紙のなかでは1992(平成4)年の朝日新聞の記事についても触れ、“西武さんに都合の悪いことはしゃべっていない”と記されていたことが同書内で触れられていました。
ほとんどの関係者がいなくなり、国鉄も解体された今となっては、これらの話が真実かどうかを確かめる術はありませんが、誰も罪に問われることなく、吊り上げられた売価で購入せざるを得なかったのが新横浜駅の用地で、ここには国民の税金が使われています。
駅予定地の疑惑が明らかになってから6年後の1968(昭和43)年には「三億円事件」(※東京都府中市で現金輸送車が強奪され、時効となった事件)が発生し、今でも未解決事件として多くの人の記憶に残されています。3億円より大きな金額がかすめ取られたであろう新横浜の“事件”は、解決も真実も見ないまま、忘れられつつあります。
大倉山トンネルで5人が生き埋めに
新横浜の次に港北区が全国の注目を集めることになったのは「大倉山」でした。
東海道新幹線の建設工事が首都圏で最盛期を迎えていた1963(昭和38)年6月17日、樽町1丁目と大倉山1丁目を結ぶ「大倉山トンネル」(全長630メートル)の工事現場で5人の作業員が生き埋めになる事故が発生したのです。
早朝5時5分ごろ、樽町側(東京側)の坑口(こうこう=トンネル出入口)の70メートルほど奥で、掘削したトンネルの断面が崩れないよう「支保工」と呼ばれる仮設の鉄骨を9人の作業員で組み立てていたところ、バリバリという大きな音とともに土砂が崩落。
4人はその場から逃げましたが、5人が大量の土砂の下に埋まり取り残されます。発生した直後は助けを求める声が聞えたというものの、状況からして全員の生存が絶望視された事故でした。
日吉トンネル工事でも死亡事故
新幹線の建設工事では死亡事故が定期的に起きており、5カ月前の1月14日には日吉4丁目の慶應義塾大学キャンパス下を通る「日吉トンネル」(全長487メートル)でも土砂が崩れて1人が生き埋めとなり、26歳の作業員が病院搬送中に全身圧迫で亡くなったばかり。
日吉トンネルでの死亡事故を報じたのは神奈川新聞で、他の全国紙が扱った様子は見られませんでしたが、大倉山トンネルの事故では全国紙が一斉に報じます。
当日の読売新聞が夕刊1面ほか複数のページを使って「五人生き埋め絶望?」「土砂多く救出作業困難」と報道し、朝日新聞も社会面トップ記事で「東海道新幹線で落盤事故、五人が生き埋め、絶望か」とどちらも大きな写真付きで掲載しました。
新幹線のトンネル工事ではこの時点までに32人の事故死者が発生していたとされていますが、5人も同時に生き埋めとなったのは初めてのこと。
樽町の現場には報道関係の車20台以上が押し寄せ、上空にはヘリコプターが飛び、翌日から新聞各紙の社会面や地域面を中心に救出の様子が詳しく報じられていくことになります。
困難な救出、泥にまみれた遺体
大倉山トンネルの救出活動には、工事を請け負っていた鹿島建設と、事故に遭った作業員が所属する下請けの高橋工務店(逗子市)から計270人が集結。
24時間体制で懸命な作業が行われますが、崩れた土砂の量が多く、さらに次の落盤を引き起こす危険性もあることから思うようにはかどりません。
トンネル坑口から救出を試みるだけでなく、真上で造成された宅地には“爆撃跡”のような穴がぽっかりと開いており、ここからトンネルの天井部にアクセスしようと大型ショベルカーを持ち込んで土砂の掘り出しと手掘りによる作業を続けました。
発生から15時間以上が経過し、諦めの空気が漂っていた夜21時20分ごろ、泥にまみれた1人の遺体が発見され、呆然と立ち尽くす作業員ら。その前を担架に載せられた遺体が運び出され、「白い毛布が薄暗いトンネルのなかにひときわあざやかで、見守る人たちの涙をさそった」(読売)といいます。
現在とは違い、事故現場からメディアや野次馬を遠ざけることはなかったようで、記者らはドキュメント風に救出作業を追っています。
40時間後に起きた2人の救出劇
発生からついに40時間が経過し、救出作業の疲労と焦燥がピークに達していた頃、トンネル頭上の地上部から掘り進んだ立坑からかすかに人の声が聴こえ、作業員らからどよめきが起きます。
「いますぐいくぞ、がんばれ」と声をかけながら土砂を掘り進み、わずかな隙間に突っ伏すようにいた2人の作業員を救出。作業を見守っていた約1000人が「絶望吹きとばす興奮のウズ」(読売)に包まれました。
救出された2人は、すぐに仲手原2丁目の「サマリタン病院」(※新横浜病院→新横浜ソーワクリックと名称を変え、病院移転後の現在はマンション「プレミアムレジデンス横濱妙蓮寺」)に搬送。同院の院長は「救出があと40分遅れれば窒息圧迫死するところだった」と語ったといいます。
2人の救出から数時間後に1人の遺体が見つかり、事故発生から78時間後には最後の遺体を収容。
延べ2000人の作業員が関わった4日間にわたる救出は、3人の死亡、2人の救出という結果で終えることになりました。
トンネル工事と宅地造成が同時進行
樽町と大倉山の境に位置する“伊勢山”とも称される小高い丘を貫く大倉山トンネルは、全長630メートルとそれほど長大ではありません。
しかし、坑口付近に点在する家の立ち退き交渉に時間を要しただけでなく、ちょうど宅地開発と掘削工事の時期が重なってしまい、国鉄では造成工事の土砂が押し出されてきたことにも悩まされたといいます。
また、地上部で主要道路の「綱島街道」(当時は中原街道と呼ばれた)と交差していることから、高さ制限(道路とトンネルとの間隔を大きくとる必要)があり、設計や工事上での工夫も必要でした。
落盤事故の発生以来、新聞ではトンネル上部からわずか10メートルしか離れていない地上部で師岡町の事業者が行っていた宅地造成工事の影響を指摘する論調の記事も目立ち、警察や県も現場検証や事情聴取を行っています。
結論としては宅地造成工事に刑事責任はなく、長雨で地盤が緩んだとの見方を示し、工事関係者がその対策を十分に行っていなかったのではないか、と指摘しました。
また、事故発生が朝の5時過ぎという点からも分かるように、当時の工事は昼夜を問わない24時間体制。事故時は15時間にわたって過重労働となっていたことも遠因ではないか、という指摘も労働基準監督署から行われています。
新幹線の工事全体で殉職は210人
大倉山トンネルで3人、日吉トンネルでは1人が犠牲になり、2人が奇跡的に助け出された港北区内での新幹線工事。
東海道新幹線の建設工事全体では210人が亡くなっており、それでも「新しい施工法と発達した機械力により、大量かつ短期間の工事で繁忙を極めたにもかかわらず、従来の例に比べて工事事故は大変少なかったといえよう」(東海道新幹線工事誌・一般編)というのが当時の自己評価でした。
港北区では新幹線開業から半世紀以上のちに「相鉄・東急直通線(新横浜線)」が区内の地下を貫く形で建設されますが、軟弱地盤や地下埋設物の多さなど難工事が続いたなかでも1人の犠牲者を出すことなく開業させています。
こうした進化の裏には、大倉山トンネルや日吉トンネルの工事で犠牲になった4人のように、下請け作業に従事した無数の人の姿があり、当時は多くが首都圏から離れた地方から出稼ぎに来た人たちで、港北区内で亡くなった4人は宮城県が2人、山形県と静岡県が1人ずつ、助け出された2人も愛媛県と青森県の在住者でした。
篠原の住宅地に今も残る杭や石
かつて大倉山トンネルの上部には「新幹線全通記念」と彫られた石碑が置かれ、工事の苦労を偲ぶことができましたが、現在はアクセスできる道が無くなり、その行方も分かりません。
樽町の事故現場は、今ではトンネルの頭上にぎっしりと家が建ち並び、坑口付近は新幹線が目の前で見られるスポットとして、周辺の保育園児らの散歩コースとなりました。
一方、新横浜駅の篠原口から近い住宅街の一画には、新幹線工事で残された「杭」や、土留めに使われた「石」が今も残されていました。新横浜の歴史に詳しい臼井義幸さんが気付き、新幹線の工事を間近に見てきた父親がそれを教えてくれたといいます。
高値で土地を買い取るなど苦心の末に開業した新横浜駅も、駅前広場と環状2号線が整備されて以降は一面の田畑という状態が長く続きましたが、平成に入ってから少しずつ発展し、現在では60年前の姿を想像できないほどに繁栄を見せています。
港北区内では、住宅街を分断するS字ルート案に住民が翻弄され、何もなかった農地が疑惑の舞台となり、4人の犠牲のもとで7.7キロにおよぶ線路がつながって駅も生まれました。こうした苦労を時おり思い出し、これからも語り継いでいきたいところです。
(「港北区と東海道新幹線」終わり)
港北区と東海道新幹線の関連年表
▼ 1959(昭和34)年
- 4月20日:新丹那トンネル東口で起工式
- 4~5月ごろ:国鉄内部で新横浜駅の場所を固めたとされる
- 10月ごろ:大阪の日本開発株式会社と菊名の不動産店が篠原耕地(駅予定地など)の農地買収活動を開始、工場建設を理由にしたとみられる
- 11月ごろ:日吉・綱島地区(日吉本町・下田町・綱島西・綱島東など)で当初「S字ルート」案の測量を開始、反対運動が始まる(→「前編」に掲載)
- 12月26日:衆議院運輸委員会が「新東海道線の綱島地区通過反対に関する請願」を採択
▼ 1960(昭和35)年
- 7月12日:衆議院運輸委員会が「東海道新幹線の横浜市日吉地区通過反対に関する請願」を採択
- 7月ごろまでに:国鉄が当初「S字ルート」案の採用を断念、次の当初案「直線ルート」上にある川崎市中原区周辺で反対運動が活発化(→「前編」に掲載)
▼ 1961(昭和36)年
- 8月:港北区内の用地について第1回の買収協議
- 8月26日:多摩川~新横浜間のルートと新横浜駅の位置を運輸大臣が認可
▼ 1962(昭和37)年
- 1月:新横浜駅を含む新横浜地区の工事に着手(計1174m、西松建設担当)
- 4月:菊名地区の工事に着手(計1332m、朝日土木担当)
- 4月:神奈川付近工事(岸根町など港北区内含む)に着手(計3700m、日本国土開発担当)
- 8月:大倉山トンネルを含む大倉山地区の工事に着手(計1428m、鹿島建設担当)
- 10月:矢上・日吉の両トンネルを含む日吉地区の工事に着手(計1446m、佐藤工業担当)
- 10月:鶴見川橋梁を含む綱島・樽町地区の工事に着手(計1614m、錢高組担当)
- 10月9日:新横浜駅予定地の農地買収にからみ、警視庁が日本開発株式会社(大阪)や菊名の不動産店など10カ所を家宅捜査
- 11月9日:日本開発株式会社の中地新吾社長が日本出国
- 11月21日までに:新横浜駅予定地の農地買収にからみ、警視庁が菊名の不動産店経営者ら2人を逮捕、その後釈放
- 12月1日:鹿島建設などが大倉山トンネルの掘削を開始
▼ 1963(昭和38)年
- 1月13日15時30分ごろ:日吉トンネルで土砂崩落、作業員の堀内勇さん(26歳、宮城県志出郡)が逃げ遅れ病院搬送中に死亡
- 6月17日5時5分ごろ:大倉山トンネルで落盤事故、逃げ遅れた5人が生き埋め、同日21時過ぎに1人の遺体を収容
- 6月18日21時30分ごろ:土砂の下から山川邦夫さん(28歳、現場世話人、愛媛県伊予三島市)と三上松一さん(32歳、青森県弘前市)を救出し、仲手原2丁目のサマリタン病院へ搬送。同日23時30分ごろ1人の遺体を発見、死者は2人に
- 6月19日:救出された山川さん、三上さんがサマリタン病院で駆け付けた家族とともに記者会見に応じる
- 6月20日11時ごろ:3人目の遺体を収容し救助活動を終える。大倉山トンネル落盤事故での死者は大野貢さん(37歳、宮城県白石市)、井上一雄さん(35歳、静岡県伊東市)、後藤篤さん(27歳、山形県山形市)の3人
- 6月21日:神奈川県警や横浜地方検察庁、県土木部などが大倉山トンネルの事故で現場検証と工事関係者への事情聴取、トンネル地上部で師岡町の事業者が行っていた宅地造成工事に責任はないとの結論、長雨による地盤の緩みと対策不足を指摘
- 7月:綱島東6丁目で「綱島周波数変電所」の建設を開始(→「前編」に掲載)
- 9月9日:国鉄が「新横浜」の駅名を決定
- 11月30日:菊名地区が竣工(計1332m、朝日土木担当)
- 11月30日:新横浜駅を含む新横浜地区が竣工(計1174m、西松建設担当)
▼ 1964(昭和39)年
- 4月15日:矢上・日吉の両トンネルを含む日吉地区が竣工(計1446m、佐藤工業担当)
- 4月30日:鶴見川橋梁を含む綱島・樽町地区が竣工(計1614m、錢高組担当)
- 6月30日:大倉山トンネルを含む大倉山地区が竣工(計1428m、鹿島建設担当)
- 7月7日:川崎市中原区市ノ坪で最後のレールを締結(→「前編」に掲載)
- 7月29日:神奈川付近(岸根町など港北区内含む)が竣工(計3700m、日本国土開発担当)
- 7月30日:綱島周波数変電所の使用始め式を挙行
- 8月24日:特急ダイヤによる全線試運転に成功、翌25日には4時間の超特急ダイヤによる全線試運転をテレビ中継
- 10月1日:東海道新幹線(東京~大阪、515キロ)が開業
- 10月10日~24日:東京オリンピック開催
(※)この記事は「東海道新幹線工事誌・一般編」(日本国有鉄道東京幹線工事局編、1965年)、「東海道新幹線工事誌・土木編」(日本国有鉄道東京幹線工事局編、1965年)、「夢の超特急」(梶山李之、1963年)、「堤義明 闇の帝国」(七尾和晃、2005年)、「新横浜50年の軌跡」(新横浜町内会、2014年)といった書籍・資料、1958(昭和33)年~1964(昭和39)年の神奈川新聞、読売新聞、朝日新聞が掲載した東海道新幹線関連の記事および1992(平成4)年3月7日朝日新聞夕刊、「週刊新潮」1962年11月5日号・1963年2月4日号、サイト「骨まで大洋ファンby革洋同」2020年2月8日公開記事「新横浜駅の土地を買い占めた元国鉄職員の名前」などを参照しました
(※)この記事は「新横浜新聞~しんよこ新聞」「横浜日吉新聞」の共通記事です
【関連記事】
・<港北区と東海道新幹線>区内を舞台に3つの“事件”、驚愕のS字計画(前編)(2024年9月24日、連載の前編)(2024年9月24日、連載の前編)
・何もなかった街「新横浜」変貌の軌跡、駅開業から60年の思い出を語る(2024年1月12日、新幹線建設時の話も)
・新横浜で田畑を耕した農家の貴重な「写真展」、1月30日まで1丁目近くで(2022年1月13日、新幹線建設で立ち退きとなった記録)
【参考リンク】
・東海道新幹線60周年特設サイト(JR東海)