【コラム=前編】東海道新幹線が1964(昭和39)年10月1日の開業から60年を迎えます。東京から新大阪まで515キロにおよぶ路線のうち港北区内の割合は1.5%ほどですが、日本で初となる新幹線建設をめぐり、区内を舞台に3つの“事件”が起きていたことは忘れられつつあります。開業60周年を機に港北区における新幹線の歴史を前・後編に分けて振り返りました。
港北区内で東海道新幹線は、川崎市中原区との市境にある「矢上川橋梁(きょうりょう)」(中原区木月4~港北区日吉3)から、神奈川区三枚町との境界で主要道路の“新横浜通り”に架かった「砂田架道橋」(港北区鳥山町)付近まで約7.7キロを走っています。
この間、「矢上トンネル」(全長135メートル、日吉3=慶應大学矢上キャンパス下)と「日吉トンネル」(同487メートル、日吉4=慶應日吉キャンパス内まむし谷付近)、「大倉山トンネル」(同630メートル、樽町1~大倉山1=樽町神明社や綱島街道などの下)という3つのトンネル内を除けば、高架橋や鉄橋、高架上に設けられた新横浜駅となっており、新幹線の姿を見る機会は少なくありません。
線路周辺が宅地化していくにつれ、騒音や高架橋による街の分断といった課題も出てくるのですが、1960年代初頭に建設計画が持ち上がった頃の港北区内は、駅周辺を除き田畑が広がるエリアが目立っていました。
なぜ新幹線が港北区内を通り、現在の「新横浜」に駅が置かれることになったのか。前編ではその経緯と混乱を振り返ります。
※おことわり:1960年代当時の地名では位置を想像しづらい場所もあるため、現在の地名・行政区名に置き換えたものを優先して使いました(例:南綱島町〇番地→綱島東〇丁目など、日吉本町〇番地→日吉本町〇丁目、川崎市中原地区→中原区)
東京・横浜の「駅」をどこに置くか
東海道新幹線を建設するにあたっては、まず東京側のターミナルをどこにするのか、という課題がありました。
新幹線計画の前身といえる通称「弾丸列車計画」(※東京~下関を高速列車で結び、下関から海路を通じ朝鮮半島を経由して中国・満州まで連絡する構想)の時にも東京駅をどこに置くかは議論されましたが、太平洋戦争により計画は自然に凍結となり、最終案は決まっていませんでした。
戦後、昭和30年代の「東京駅」は、まさに東京の中心駅で、そこへ新幹線が乗り入れると混雑が悪化してしまいかねない、との考えから別に新たなターミナルを設ける案が複数出されています。
その候補地となっていた場所を挙げてみると、
- 山手方面:ワシントンハイツ(※代々木=米軍占領地)/淀橋浄水場跡(※新宿新都心)/新宿西口広場/明治神宮外苑/新宿御苑
- 中央部:市ヶ谷付近/代官町付近(※北の丸公園付近)/竹橋(気象台)付近/飯田町貨物駅(※飯田橋駅付近)
- 東海道方面:品川駅(山、海側)/汐留駅(貨物駅)/東京駅(八重洲)/東京駅(丸の内)/皇居前広場
というもので、このなかから「東京駅」「汐留駅」「品川駅」「皇居前広場」「新宿駅付近」「四ツ谷・市ヶ谷」「代々木(ワシントンハイツ)」の7つに絞られます。
都としては東京駅の“一極集中”を避けるため、できるだけ離したい思いを持っていましたが、当時の国鉄(現JR)は在来線との乗り換え利便性などから「東京駅案」を全面的に推しており、最終的には東京駅・八重洲に決定。都も「国鉄がどうしてもというなら止むを得ない」(東海道新幹線工事誌)と同意したといいます。
同様に次の“横浜駅”をどこに置くべきか、という点も大きな検討課題でした。
ただ、東京都とは違い「横浜市の裏側では駅はここでなければならないという決定的な場所もなかった」(同工事誌)と言われ、国鉄は弾丸列車計画の時からぼんやりと決めていた“横浜線との交差地点”を中心に候補地を探し始めます。
最初は、利便性から考えて京浜東北線とも接続できる「東神奈川駅」(横浜線の始発着駅)に置くことを検討しましたが、付近で多数の道路が支障となることから断念。
東京駅で主要在来線との乗り換え環境が確保できたため、次の横浜は在来線との接続を重視しなくてもいい、との考え方もあったようです。
そこで“新幹線横浜駅”の建設地は、東神奈川駅にも近く東急東横線とも接続できる「菊名駅」と次の「小机駅」、または「菊名~小机の中間」という3案が出されました。
国鉄は、鶴見川の氾濫による影響を避けるため、できるだけ山側に近い場所を模索しましたが、そうした場所はすでに家が建ち道路が通っていたことからあきらめ、横浜線線路の左右一面に田畑が広がり、住宅や道路にも支障のない、菊名駅と小机駅間で菊名寄りに位置する現在地(篠原町勝負田)に決めています。
新横浜駅の位置が決まるとほぼ同時に土地ブローカーが秘密情報を入手し、予定地となっていることを知りようもない土地所有者から次々と農地を買い占め、のちに高値で国鉄に転売されることになるのですが、この出来事は後編で取り上げます。
多摩川~新横浜で“幻のルート案”
開業の5年半前となる1959(昭和34)年4月に「新丹那トンネル」(熱海駅~三島駅間)で新幹線の起工式を終え、東京駅と横浜駅(新横浜駅)の位置にも目星をつけた国鉄は、どこに線路を通すかの検討を本格的に始めます。
東京から横浜の間は、弾丸列車計画でも詳しいルートは決まっていませんでした。
昭和30年代の中ごろに差し掛かりつつあったこの頃、すでに東京都心部は市街地化が進んで土地買収では時間を要することから、東海道本線(在来線)の線路を増設するために予め確保していたスペースや、通称「品鶴(ひんかく)線」と呼ばれる貨物線(現在は横須賀線・湘南新宿ラインが通る西大井経由の線路)の上部に高架を重ねる“二階建て”とするなどの工夫を重ねます。
そうして東京駅から多摩川手前までのルートは決まるのですが、その先、川崎と横浜の両市内でどこを通すのかが大きな問題となりました。
1959(昭和34)年当時の国鉄が考えた多摩川より先、新横浜駅までのルート案は、
- (1)S字ルート(井田・日吉本町・下田町の山側を迂回し綱島東へ、大倉山トンネル付近で現在のルートに合流。カーブは緩いが東横線を3回またぐ)
- (2)直線ルート(現在のルートに近く、多摩川を斜め横断し、向河原付近で合流することで急カーブを緩和)
の2つです。
(1)の「S字ルート」案は武蔵小杉駅付近で東急東横線と南武線をまたぎ、中原区の法政二高付近(木月大町)や井田周辺、港北区内では下田町3丁目(下田神社付近)や日吉本町4丁目(日吉台中学校付近)を通過。
綱島西で東横線を再度またいで綱島東の「諏訪神社」付近にいたり、鶴見川を渡って樽町1丁目の大倉山トンネル付近からは現在と同じルートで新横浜駅へ至るというもので、大廻りではあるものの、曲線を緩やかにできる利点がありました。
一方(2)の「直線ルート」案は、多摩川で現在より少し下流に鉄橋を架けて“斜め横断”し、南武線の向河原駅付近にいたり、NECの事業所近くで現在のルートに合流しようとするもの。
大廻りするS字ルートより距離を短くできる利点はありますが、市ノ坪や刈宿(かりやど)、北加瀬、木月4丁目などの住宅地も通ります。
綱島で勝手に測量を始めた国鉄
(1)のS字ルート案の存在に驚いたのは日吉・綱島の住民です。
ルート上は田畑が目立つエリアだったとはいえ、住宅地化が進みつつあった下田町の日吉団地(現サンヴァリエ日吉)や、建設中だった日吉本町の南日吉団地(現コンフォール南日吉)の近くで街を分断し、綱島東では温泉旅館などがあった諏訪神社付近を高架橋が貫くことになり、沿線で200戸以上が移転しなければならない計画案となっていました。
1959(昭和34)年11月になるとルート上で前触れなく測量が始まり、たとえば綱島東2丁目の「長福寺」付近では予告もなく作業員がやってきて、許可なく勝手に竹やケヤキを伐採する始末だったといいます。
危機感を募らせた綱島の住民は、同じく通過予定地の樽町や太尾町(大倉山)の住民らと連携し計800人からなる「通過反対期成(きせい)同盟」を結成。
国鉄本社へ反対陳情を行うとともに、国会議員を通して衆議院に「新東海道線の綱島地区通過反対に関する請願」を提出し、これを採択させることに成功しました。
翌1960(昭和35)年2月19日に神奈川新聞が1面で「新東海道線の前途に暗雲 綱島で通過反対の運動」との見出しで報じた記事には、反対期成同盟で代表をつとめた綱島東2丁目の農家で当時59歳だった男性の写真とコメントが載っています。
記事によると、“わざわざS字状に綱島の住宅地を通り、東横線を3回も交差するのは納得しがたく、しかも綱島の住民は東横線や綱島街道の建設時に過去2回も移転問題に苦しんできた。過激な闘争をするつもりはないが、冷静に国鉄の誠意を待ちたい”といった趣旨の談話でした。
東横線や綱島街道の建設時に地元住民が移転で苦労したという話は、現在ではほとんど伝わっていませんが、1960年当時はまだ“近い昔”の出来事だったようです。
一方、国鉄の用地担当者は、このS字ルートについて「丘陵部の切りとりや、トンネル部分が少なく大工場などを通過しない予定路線(※S字ルート)が正しいと思う。地下化はばく大な工費がかかるから無理だ」といい、近くに横浜駅(新横浜駅)ができて繁栄するので協力をお願いしたい、といったコメントを残しており、この時点で国鉄はS字ルートを有力視していたことがうかがえます。
日吉本町や下田町では新住民が多かったせいか、反対運動を組織化した痕跡は見つけられませんでしたが、1960(昭和35)年7月には日吉地区4222人の住民が共同で「東海道新幹線の横浜市日吉地区通過反対に関する請願」を国会に提出し、こちらも衆議院で採択されました。
中原区側も猛反対、知事が乗り出す
こうした日吉・綱島周辺の反対運動が実ったのか、綱島東での“無断測量”から半年以上が経った1960(昭和35)年7月ごろまでに国鉄は秘密裏にS字ルートを断念するに至りました。
背景には、首都圏では急な曲線を用いたルートでも構わないという特例が認められたことがあるとされています。
そこで、S字よりカーブがきつくなる(2)の「直線ルート」案が浮上するのですが、納得できないのは中原区(当時は「区」ではなく中原地区と呼ばれていた)のルート上に住む中丸子や市ノ坪、刈宿(かりやど)、北加瀬、木月といったエリアの住民です。
沿線住民ら700人が「路線変更反対期成同盟」を結成し、同年7月には反対集会を開くとともに、直進ルート案に反対する請願が国会に出され、こちらも採択されました。
つまり、当初のルート案は(1)も(2)も国会で否定されてしまったわけです。
そのため国鉄は(2)の直線ルートに近い新たな案を6つ考え、高架だけではなく地下に線路を通す計画も提示するようになります。
なかには、中原区の綱島街道(中原街道)の地下を通す案や、現在の新川崎・鹿島田付近を大廻りする案などもありましたが、地下化は「技術的に困難」(同工事誌)として断念。
結局、貨物線(現横須賀線・湘南新宿ライン)に沿って武蔵小杉駅近くで線路を急カーブさせ、中原区市ノ坪(府中街道近く)付近から貨物線と離れ、日吉町や綱島東の田畑が広がっている地域を通って新横浜へ向かう、という現在の「急曲線を入れた直線ルート案」(地図上のⒶ)を採用しました。
中原区の周辺住民とっては、当初は井田方面へと離れるルートが有力だと聞いていたのに、いつの間にか国鉄が変え、家や工場の建つエリアを高架橋が通ることになってしまったわけです。
そうした怒りは測量の阻止も含めた強固な反対運動につながり、国鉄は住民の説得と土地の入手に困難を来たします。最終的には東京オリンピック(1964年10月)に開通が間に合わなくなることを危惧した神奈川県知事が仲裁に入り、解決が図られることになりました。
東京から新大阪まで515キロ区間で最後に線路をつなげたのは、中原区市ノ坪付近で、開業の3カ月前となる1964(昭和39)年7月1日のこと。
レールを締結する式典は、雨の中で見学する地元住民も少なく、地元の怒りなのか国鉄の遠慮なのか、「あっけないくらい静かで、ビジネス・ライクな線路全通式」(読売新聞1964年7月1日夕刊)となり、わずか10分ほどで終わったと伝えられています。
隠されていた綱島の変電所計画
川崎と横浜両市内でのルート選定や土地売買に関わる混乱に隠れ、国鉄がこっそり進めていた計画がもう一つあり、それが綱島での「変電所(周波数変電所)」の新設計画です。
西日本エリアで使われている「60Hz(ヘルツ)」の電力によって全線を運行することを決めた東海道新幹線は、静岡より東側に入ると50Hzの電力を60Hzに変換して供給しなければ電車を運転できず、そのための変電所が複数必要でした。
ルート選定でもめている最中に変電所計画を明かしては火に油を注ぐことにもなりかねない、と新幹線本線の敷地購入協議が終わってから発表したところ、地元から猛反発を受け、県議会で反対決議に持ち込まれる寸前にまで至ります。国鉄は当初、現在とは異なる場所に変電所の建設を考えていたようです。
その後、港北区長の積極的なあっせんで綱島東6丁目に約1万9000平方メートルの敷地を国鉄が入手したのは1963(昭和38)年4月のこと。開業の1年半前でした。
鶴見川の真横という場所にある現在地は国鉄が「最も悪条件の土地」(東海道新幹線工事誌・電気編)というくらい軟弱地盤の湿地で、同年7月に始めた工事では地盤の硬い地下34メートルまで杭を打ち、さらに浸水対策として3メートルの盛土をしなければならないほどでした。
土を満載したダンプカーが農道のような未舗装道路を破壊してしまうだけでなく、ダンプカー自体も車軸が折れて廃車になったり、長雨に悩まされたりしながらも何とか完成にこぎつけ、開業の2カ月ほど前に使用を始めています。
一方、綱島東の住民は、ルート選定時に加え、変電所の建設でも苦労を強いられ、工事時はダンプの通過で道路がぬかるみ、一般車の通行にも支障をきたすほどだったようです。
その後、綱島東では東急新横浜線・新綱島駅(綱島東1丁目、2023年3月開業)の計画まで半世紀以上にわたって大規模な再開発を回避してきたのは、こうした過去の経緯があったからではないかと想像させられてしまいます。
高架橋に残された60年前の風景
着手からわずか5年半ほどで完成した東海道新幹線ですが、港北区内では新幹線の開業後に住んだり生まれたりした人が多くなり、“完成前”の話を聞く機会もほとんどなくなりました。
それでも、新幹線が通ることになった日吉3・4・5・7丁目や箕輪町2丁目、綱島東3・4・5・6丁目では、田畑が一面に広がっていた時代の記憶を少しだけ施設名からたどることができます。
たとえば日吉5丁目付近の「第一久保新田高架橋」(宮前中町バス停付近)と日吉7丁目付近の「第二久保新田高架橋」は、日吉町にかつて存在した“窪新田(くぼしんでん)”という農地の小字(こあざ)から別の漢字を充てた名称でした。
箕輪町2丁目と綱島東4・5丁目付近の道路上に架けられた「新川橋梁」は、かつてここに“新川”と呼ばれた農業用水路のような川が流れていたことを橋梁名に残しているものです。
開業60年という節目を迎えた今年、近所の高架橋から当時の風景と建設の苦労を想像し、日常の風景となった東海道新幹線の歴史を振り返る好機かもしれません。
【後編】「<港北区と東海道新幹線>新横浜駅『買い占め』疑惑と大倉山トンネルの悲喜」もご覧ください
(※)この記事は「東海道新幹線工事誌・一般編」(日本国有鉄道東京幹線工事局編、1965年)、「東海道新幹線工事誌・電気編」(日本国有鉄道東京第二工事局、1965年)、「わがまち港北2」(平井誠二/林宏美、2014年)などの資料・書籍をはじめ、1958(昭和33)年~1964(昭和39)年の神奈川新聞、読売新聞、朝日新聞が掲載した東海道新幹線関連の記事を参照しました
(※)この記事は「新横浜新聞~しんよこ新聞」「横浜日吉新聞」の共通記事です
【関連記事】
・【後編】<港北区と東海道新幹線>新横浜駅「買い占め」疑惑と大倉山トンネルの悲喜(2024年9月30日)※リンク追記
・綱島変電所が東海道新幹線の“エコ化”に貢献、60Hzへの変換装置を連系(横浜日吉新聞、2021年6月2日、綱島東6丁目の周波数変電所について)
・何もなかった街「新横浜」変貌の軌跡、駅開業から60年の思い出を語る(2024年1月12日、新幹線建設時の話も)
【参考リンク】
・わがまち港北2「第163回 下田の自然と幻の新幹線計画」(大倉精神文化研究所、S字ルート案に対する下田町住民の驚きなど)
・東海道新幹線60周年特設サイト(JR東海)