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港北が舞台の文芸作品(2)綱島編「前編」

港北区が登場する書籍を紹介していく連載「港北が舞台の文芸作品」。第2回「綱島」編では、昭和初期から最盛期だった昭和30年代までの綱島温泉を取り上げた「前編」に続き、「後編」では人物に焦点を当て、ノンフィクションから推理小説、そして地元出身者の作品までを紹介します。前編の「<港北舞台の文芸作品2>昭和の温泉街にみなぎる人間模様~綱島」もあわせてご覧ください

港北が舞台の文芸作品(2)綱島編「後編」

「港北区が舞台の文芸作品」連載について
  • この連載は主に小説と随筆、漫画を含むフィクションを交えた作品を中心に、港北区が登場する文芸作品を2024年6月から全6回(予定)にわたって紹介していきます。
  • 文中の作家名などは「敬称略」で統一しました。また、作品の公開年は初出時とし、書誌の詳細と文中に引用した版は本ページ下部にまとめて掲載しています。

綱島ゆかりの人物といえば、まずこのスターを語ることから始めなければならないほど、伝説的な存在です。

三橋美智也はなぜ綱島へ来たのか

綱島温泉が戦後の復活を遂げつつあった1950(昭和25)年、綱島東口で大衆浴場に衣替えしていた「東京園」に現れた19歳の青年が後に昭和30年代の日本を代表する歌手に育つ三橋美智也(1930年~1996年)でした。

三橋が後に残した2冊の著書から綱島時代を振り返ってみましょう。

 思えば、私はラッキーです。東京に着いて一ヵ月もしないうちに、東京園での住み込みで働くようになったのですから。

その東京園はいろいろな意味で、私の生きざまにかかわりを持っていくのです。こればかりは、運命の神様しか知らない人生行路です。

(三橋美智也「ミッチーの人生演歌」)

函館に近い上磯(かみいそ)町(現北斗市)で1930(昭和5)年11月に生まれ、母の厳しい手ほどきを受け、5歳の頃には“民謡の神童”と呼ばれるほどだったという三橋美智也。

その後に覚えた三味線を手に、戦中戦後の貧しい時代は一家のために東北や北海道でいわゆる“ドサ回り”の一座と旅を続けていました。

人気絶頂期にあった1957(昭和32)年に刊行された三橋美智也の「歌ひとすじに」(サンデー映画社、国会図書館デジタルコレクションより)

しかし、「どうしても勉強がしたい、一人前の人間になりたい」(三橋美智也「歌ひとすじに」)との思いが次第に強くなり、旅一座から逃げるように上京

鎌倉に住んでいた民謡歌手・菊池淡水(1902年~1990年)の尽力で、桜木町駅近くの「雪見橋」にあった銭湯で雑用をこなしながら民謡や三味線を教えるという職を得ます。

そこで人づてに知り合ったのが当時「東京園」の支配人をつとめ、若い従業員を探していた北沢とし子でした。

東京園に住み込みで働くという新たな職を得た三橋。夜は大広間を使って50人ほどの“弟子”をとって民謡を教える生活を続け、軌道にのった頃には近くで出張稽古場も設けていたといいます。

 この東京園の生活で、私が終生忘れることができない方がふたりあります。一人は当時「おばあちゃん」と私が呼んでいた方。北沢の母のお姉さんで、東京園の社長の母に当たる方です。この方は私を大変可愛がって下さって、着るものなど惜しみなく買ってくださいました。私が世に出るまで物質的面でのお世話をかけ通しでした。

もう一人は、当時、私が「おばさん」と呼んでいた北沢の母、つまり今の私の母なのです。母は物質面でこそ私に援助はできませでしたが、かげになり日向になって私をかばい、常に私をはげましてくれました。この二人の物質面、精神面の援助があればこそ今日の私がうまれたのです。この二人の御恩は終生わすれられません。私の成功を真っ先によろこんでくれるのはいつもこの二人なのです。

(三橋美智也「歌ひとすじに」)

三橋が「おばあちゃん」と呼んでいた中村かつは東京園の創業者・中村忠右衛門(ちゅうえもん、1881年~1961年)ので、忠右衛門が都内で教員をつとめていた時代には、渋谷区富ヶ谷付近で学生向けの下宿を運営していたといわれています。

「北沢の母、つまり今の私の母」とあるのは中村かつの妹で、三橋を東京園に招いた北沢とし子のこと。北沢夫妻には子がおらず、後に三橋が養子に入り、東京園一家と三橋は“ファミリー”という形になりました。

自らの人生を振り返った「ミッチーの人生演歌」は三橋美智也が52歳だった1983(昭和58)年10月の刊行(翼書院、国会図書館デジタルコレクションより)

1952(昭和27)年に21歳となった三橋は「勉強がしたい」との念願を叶えるべく、明大中野高校に入学。

4年の定時制では1年間がもったいないと昼間の3年制に通ったことから東京園での仕事は断念し、昼は高校生、夜は“民謡の先生”という生活に変わったといいます。

そして、同高在学中の1954(昭和29)年には“民謡調の新星”としてキングレコードが売り出し、翌1955(昭和30)年「おんな船頭唄」が40万枚の大ヒット。

翌1956(昭和31)年になると「リンゴ村から」「哀愁列車」など14曲が売れ、「ラジオから朝から晩まで三橋の歌が洪水のように流れ、お年寄りから子供まで、三橋を知らない人間はいないほど爆発的なブームの到来であった」(荻野広「三橋美智也~戦後歌謡に見る昭和の世相」)。

日本の誰もが知る大スターに育ち、綱島からは離れた三橋ですが、1957(昭和32)年に綱島小学校で体育館を建設するためのチャリティー公演に出演したことは、当時を知る地元住民に今も語り継がれています。

三橋美智也の没後20年を前に出版された「三橋美智也~戦後歌謡に見る昭和の世相」(荻野広、2015年アルファベータブックス)

一方、三橋の没後20年を控えた2015(平成27)年に自ら蓄積した情報を一冊の本にまとめた荻野広(1948年~)が「このままでは偉大な歌手の存在が、次第に忘れられていくのも時間の問題である」(「三橋美智也~戦後歌謡に見る昭和の世相」)と危機感を持つように、三橋の全盛期をリアルタイムで体感した世代は年々少なくなっているのが現状です。

三橋は1970年代後半になるとカップラーメン「激めん」のテレビコマーシャルで“少し変なおじさん”に扮したり、「おらがの やまにも さくらがさいた~、いいもんだなあ、ふるさとは~…“それにつけてもおやつはカール”」(カールの里からの便り)と著名な菓子のコマーシャルソングを歌ったりと、1990年代初頭まで活躍を続ける人気者でしたが、当時テレビを見ていたであろう人口の多い「団塊ジュニア」と呼ばれる世代が、歌謡界のスターだった三橋美智也とリンクして記憶しているかどうかは分からない部分があります。

参考:「東京園」の創業前後に関しては横浜日吉新聞で2024年5月7日に掲載した「戦前は西口ヨーカドー付近にあった『東京園』、綱島温泉をめぐる3つの意外な歴史」に詳細があります

博学の東京園二代目と沢木耕太郎

三橋美智也が綱島でチャリティー公演を行ってから3年ほどが経った1960(昭和35)年、日本を震撼させる事件が起き、意外な形で東京園が文芸作品内に再び登場していました。

 その頃、晋平と君子はマスコミの攻撃を逃れるため、綱島に身を隠していた。成城高校時代の友人、中村忠相が経営する東京園という温泉の一室を借りて暮らしていた。事件の翌日、中村から電話がかかってきた。「役に立つことがあったらいってくれ」というのだった。晋平は中村の好意に甘え、綱島に行った。中村は使用人に気づかせないため、彼らが誰であるということを告げず、単なる客として扱った。中村が山口に貸し与えたのは、かつて無名時代の三橋美智也が民謡師範として暮らしていた部屋であった。

(沢木耕太郎「テロルの決算」)

晋平」とは、前編で紹介した随筆集「白い役人」(1952年)の著者で、演劇人から国税庁の広報職員となり、その後に自衛隊の文官へ転じた異色の経歴を持つ山口晋平のこと。戦前に旅館だった時代の東京園に押しかけたエピソードを著書に残した人物です。

一方、中村忠相(ただすけ、又はちゅうそうとも)は、東京園創業者の忠右衛門を父に持つ二代目の経営者。京都大学で学んだ後、「若旦那」として家業に携わり、戦後に東京園を旅館から大衆浴場に衣替えし、その基礎を築きました。

山口と中村は1909(明治42)年生まれ、成城高校(旧制)では第1期生としてともに学んだ縁を持ちます。

「テロルの決算」は浅沼稲次郎刺殺事件(1960年)を犯人側、浅沼側それぞれの視点から18年後に振り返ったルポルタージュ。写真は文春文庫の「新装版」

1960(昭和35)年10月12日、当時の野党第一党だった日本社会党(現社会民主党)の委員長・浅沼稲次郎が演説中に刺殺される事件が発生し、犯行におよんだ17歳の山口二矢(おとや)は山口晋平の二男でした。

二矢は逮捕後の取り調べに淡々と応じた後、拘置所で命を絶ってしまうのですが、父親である晋平にも世間から非難の眼が向けられ、自衛隊の職を辞するまで追い込まれます。

劇団の遠征先で無一文状態となった山口晋平が戦前の東京園へやってきた際に助けたように、戦後は“殺人犯の父”としてマスコミに追い廻されることになった今回も中村忠相が密かに救いの手を差し伸べていたことになります。

自分は山口二矢の行為を容認しない。天皇制に対してはむしろ否定的な考えを持っている。しかし、その両親に向けられている世間の暴力的な圧力には断固として反対する。だからと、彼は事件の渦中(かちゅう)にある山口二矢の父親に電話をしたのだ。「できることがあれば言ってくれ」と。しかし、それは彼自身が脊髄を折ってまだ日も浅い頃のことだったのだ。普通の人なら、自分の身の不運を嘆いているだけで終わらせてしまったかもしれない時期だった。

(沢木耕太郎「ベッド上の聖人」=「彼らの流儀」所収)

ノンフィクション作家の沢木耕太郎(1947年~)は、浅沼稲次郎刺殺事件を題材としたルポルタージュ「テロルの決算」(1978年)を取材するなかで、50歳時に不慮の事故で寝たきり生活となっていた中村と知り合います。

沢木は中村に山口晋平についての話を聞くだけでなく、長年ベッドの上にあっても幅広い知識と確固たる考えを持ち続ける「中村忠相という存在そのものが魅力的だったのだ」(「テロルの決算」新装版、あとがきⅢ)と、その後も中村が入院する病院を定期的に訪問。

33の短編物語を掲載した「彼らの流儀」、写真は新潮文庫版

1991(平成3)年に刊行された33の物語が織りなす書籍「彼らの流儀」では、最終の物語として中村のエピソードを持ってくるだけでなく、中村の長男で米国在住の忠彦も訪ねて取り上げました。

そして、2008(平成20)年に「テロルの決算」を新装版とした際は、あとがきに中村とのやり取りを加筆し、新たな読後感を読者に示することになっています。

東京園と三橋美智也の関係だけでなく、寝たきり生活のなかでも山口晋平らさまざまな人物から頼りにされ、沢木耕太郎の心も動かした東京園二代目・中村忠相の存在も、今は昭和史の片隅に埋もれつつあります。

平成後期まで綱島温泉の歩みを守ってきた東京園自体、鉄道工事にともなう閉鎖からまもなく10年を迎えようとしています。

父から事業を継ぎ大衆温泉としての東京園を築いた博学の中村忠相が生きていたなら今の世をどう思うのか。綱島はこのまま100年近く続いた温泉地だった歴史を遠い過去のものとしてしまうのでしょうか。

綱島から始まる「御手洗潔シリーズ」

温泉街の繁栄も三橋美智也も昔の思い出となりつつあった1980年代の綱島で、フィクションの世界に「御手洗潔」というヒーロー的なキャラクターが推理作家・島田荘司(1948年~)の手によって生み出されることになります。

 いい天気だった。街に昨夜の雨の名残りなど微塵もない。ゆうべ星座のことを考えていて思いついたアイデアというのは、いつも工場の行き帰りに電車の窓から見る「御手洗占星学教室」という小さな看板のことだった。妙な名前の看板だったから、よく覚えていた。

(略)

看板は綱島の駅近くで見かけた記憶がある。そこで綱島の駅で降りてはみたものの、占い教室はえらく解りにくい場所にあるらしかった。

(略)

迷いに迷ってようやく古いビルの一階郵便受けに「御手洗」という文字を見つけたのは、もうこんなことはやめて仕事に行こうかと十回も考えた後だった。郵便受けの部屋番号からみて占星学教室は五階にあるらしいのだが、一階をうろうろしてみてもエレベーターはなかった。仕方なく階段をあがっていくと古色蒼然たるビルだと思っていたが、上へいくほどますます古ぼけていき、「御手洗占星学教室」と麗々しく書かれたドアの前で最高潮に達した。

(島田荘司「異邦の騎士」)

高円寺あたりで記憶を失った若い主人公の男」は混乱のなかで19歳の「良子」に助けられ、元住吉の尻手黒川線に面した古いアパートでともに暮らし始めます。

履歴書もなく採用されたという菊名の工場へ日々通うなか、主人公の男が消えた記憶を辿ろうと頼ったのが東横線の車窓で見掛けた綱島の“御手洗占星学教室”でした。

講談社文庫版の「<完全改訂版>異邦の騎士」、同作品は島田荘司が初めて書いた作品とされ、後のミステリー作品とは異なる雰囲気を醸し出しているが、トリック自体は複雑

その後、30作品以上にわたって続くことになる島田荘司のミステリー「御手洗潔シリーズ」は、綱島の分かりづらい場所にある古色蒼然(こしょくそうぜん)たるビルの5階で開いていた“占い教室”から始まります。

時おり占星術の知識も用い、明晰な頭脳を生かして難事件を次々と解決する名探偵となっていく御手洗ですが、その“変人”ぶりは最初の登場シーンから際立っていました。

(略)それで早口で「おてあらい」と「おたらい」の中間あたりに聞えるように発音した。

「あのう……、御手洗さんって方は……?」

「たぶん僕でしょう!」

(略)

「あの、あなたが御手洗……」

「名前というものは記号にすぎません!」

突然この若い、背の高い男は言った。

「だからそんなものにこだわるのは俗物の証しというものです。人の名前が、予言者の警句ほどに哲学を秘めているならいざしらず、いの一番、ろの三番と書いた風呂屋の下足札と同じです!」

(島田荘司「異邦の騎士」)

どこか読みづらい「御手洗(みたらい)」という苗字と、それに続く「潔(きよし)」という名は、本シリーズ内でたびたび触れられる“鉄板ネタ”となっており、天才にありがちな変人像とともに肝心なところで見せる優しさが、難解で陰惨な殺人事件が起こる作品中で清涼剤的な役割を果たしていきます。

島田荘司のデビュー作「占星術殺人事件」、写真は講談社文庫版

島田荘司のデビュー作で御手洗潔が大活躍する「占星術殺人事件」(1981年)があまりに難解なトリックかつ衝撃的な内容で、シリーズ不動の第一作として定着しているのですが、島田の処女作は後に出版された「異邦の騎士」(1988年)であり、“綱島の御手洗潔”はここから始まりました。

つまり、

  1. 異邦の騎士(1988年):元住吉・綱島・菊名が舞台
  2. 占星術殺人事件(1981年):綱島の事務所内での謎解きが中心
  3. 数字錠(「御手洗潔の挨拶」所収)(1985年):綱島時代最後となる作品

という順序で読むと、綱島の古びた住居兼事務所で謎の生活をおくる御手洗潔の変化と成長に触れることができます。

その後の“謎解きシリーズ”とは作風が若干異なるのですが、「異邦の騎士」元住吉・綱島・菊名の3カ所が舞台となっており、本作から入ると重要登場人物の出自も解き明かされることになるため、後のシリーズを読むうえでもスムースです。

御手洗潔の綱島時代で事務所が登場するのは3作品しかなく、1985(昭和60)年初出の「数字錠」では、多数の蔵書で床が傾いたと家主に難癖を付けられ、「今日中にここを出ていかないと、大家に告訴されかねない」と大みそかに馬車道の住居兼事務所へ引っ越してしまいました。

「御手洗潔の挨拶」の冒頭に掲載されている「数字錠」では綱島から馬車道へ引っ越すエピソードも、写真は講談社文庫版

これらの作品は1978(昭和53)年5月から1979(昭和54)年12月末までの出来事とされており、1980年代前後の街を想像しながら読むと、地元民ならではの楽しさが味わえるのではないでしょうか。

なお、講談社文庫版の「(完全改訂版)異邦の騎士」のあとがきでは、元住吉と作者の関係が明かされています。

また、主人公の事務所が綱島に設定されたのは、「占星術殺人事件」のなかで御手洗潔が発した「僕は東京のはずれの、こんな薄汚い街の一角に占い師の看板をあげて、さまざまな悲しみの声を聞いてきた」という言葉から、都心の果てのくたびれたイメージを持つ場として選ばれたのではないかとみられます。

温泉街の衰退で過渡期にあった1980年前後の綱島は、作者の島田にとって御手洗潔を生み出すうえでふさわしい雰囲気を漂わせていたのかもしれません。

多彩な著作の「ふかわりょう」に期待

2000年ごろから現在まで綱島で育った記憶や現状を時おり著書に記してきたのが、ふかわりょう(1974年~)です。

テレビで活躍する「お笑い芸人」として強い印象を残すふかわですが、今年(2024年)3月の最新作まで計15冊の著書を残しており、初期の“お笑いネタ”を中心にまとめた書籍であっても、その多くに自らが執筆する文章を盛り込んできました。

「りょう君さぁ、綱小のタイムカプセル覚えてる?」

「綱小」とは、僕の母校である、横浜市立綱島小学校のことです。

「タイムカプセルって、アスレチックのとこにあったやつ?」

小規模なアスレチックの横に、ピラミッド状の建造物があります。そこには、「20世紀からの贈り物」と刻まれた、石碑がありました。それを、僕らは「タイムカプセル」と呼んでいたのです。

(ふかわりょう「タイムカプセル」=「ムーンライト・セレナーデ」所収)

1冊丸ごとのエッセー集「ムーンライト・セレナーデ」(メディアファクトリー)が世に送り出された2002(平成14)年9月は、ふかわがまだ28歳の頃

ある程度の年齢となるまで自らのプロフィールを出身都道府県と芸歴くらいしか明かさないケースが目立つ芸能界で、母校の小学校名を堂々と書いて作品にしてしまうあたり、文章で自らを表現していく覚悟と、地元に対して持つ誇りを感じさせます。

2002年に刊行された「ムーンライト・セレナーデ」はふかわ初のエッセイ集

育った綱島の家や家族、小学校の頃に連れてきた犬、中高生時代の記憶、慶應大学へ進学する際の思い、大学で「ラテンアメリカ研究会」に所属しそこでの友人“そのだ”とコンビを組んでお笑いコンテストに入賞したことなど、地元に関係する思い出を幾つかの書籍に書き残しました。

ふかわは、「テレビ以外のフィールドでも『表現者』でいたいのです。『モノを作る人』でいたいのです」(2008年「理由」=「ムーンライト・セレナーデ」所収)といい、その思いは現在まで続いているようです。

 もともと綱島駅は微妙な駅でした。地元民だからこそ言います。本当に微妙でした。

(略)

とはいえ、このごちゃごちゃしているのが綱島であり、地元の風景。しかも、昨今の「昭和レトロ」の波が押し寄せ、若者たちがこの町に好んで住んでいるのです。彼らにとってみれば「懐かしい」と言うよりも、時間と寄り添った景色に対する「安心感」かもしれません。

(ふかわりょう「SANS SOLEIL(サン・ソレイユ)」=「ひとりで生きると決めたんだ」所収)

最近刊行されたエッセーでは、新綱島駅の開業を控えるなか、「地元綱島が、武蔵小杉のように一皮剥け、新たな楽章が始まるようです」と期待を示しつつ、出身者としての目線で街の現状を分析しています。

2022年11月に新潮社から刊行された「ひとりで生きると決めたんだ」

ふかわは過去に「DSJ~消える街」(2007年、宝島社)というサスペンス的な本格小説を発表したことがあり、今年3月には「いいひと、辞めました」(新潮社)と名付けた創作を久しぶりに著すなど、旅行記も含めてエッセー以外の作品も手がけてきました。

いつか綱島や慶應大学時代を舞台とした小説を世に出すような時は来るのでしょうか。期待して待ちたいところです。

次回予告など
  • 「港北が舞台の文芸作品」の第2回「綱島」編(前編/後編)はこれで終了です。次の第3回は大倉山を舞台としている作品を紹介します。

今回紹介・参照した書誌の詳細

)書誌詳細やリンク先は2024年7月時点のものです。入手困難な書誌に限り図書館の書籍案内ページにリンクしました

  • 歌ひとすじに(三橋美智也):1957(昭和32)年サンデー映画社「サンデー新書」。本稿は1957(昭和32)年1月1日発行の初版を引用した【出版社ほか入手困難/国会図書館デジタルで公開】
  • ミッチーの人生演歌(三橋美智也):1983(昭和58)年翼書院(単行本)。本稿は1983(昭和58)年10月15日発行版を引用した【出版社ほか入手困難/国会図書館デジタルで公開】
  • 三橋美智也~戦後歌謡に見る昭和の世相(荻野広):2015(平成27)年アルファベータブックス(単行本)。本稿は2015年5月25日発行第1刷を引用した【出版社ほか入手可能/横浜市図書館所蔵無し】
  • テロルの決算(沢木耕太郎):1978(昭和53)年文藝春秋刊(単行本)、1982(昭和57)年文春文庫版、2008(平成20)年文春文庫(新装版)。本稿は2023年5月25日発行の文春文庫(新装版)第9刷を引用した【出版社ほか入手容易・デジタル版有/横浜市図書館貸出有】
  • ベッド上の聖人(沢木耕太郎):1991(平成3)年朝日新聞社刊「彼らの流儀」所収、1996(平成8)年新潮文庫版。本稿は2023年2月10日発行の新潮文庫版14刷を引用した【出版社ほか入手容易/横浜市図書館貸出有】
  • 異邦の騎士(島田荘司):1988(昭和63)年講談社(単行本)、1991(平成3)年講談社文庫版、1998(平成10)年講談社文庫版「完全改訂版異邦の騎士」、本稿は2003(平成15)年8月発行講談社文庫版「完全改訂版異邦の騎士」第12刷を引用した【出版社ほか入手容易・デジタル版有/横浜市図書館貸出有】
  • 占星術殺人事件(島田荘司):1981(昭和56)年講談社(単行本)、1987(昭和62)年講談社文庫版、1990(平成2)年光文社文庫版、2013(平成25)年講談社文庫「改訂完全版占星術殺人事件」など。本稿は2005(平成17)年7月発行講談社文庫版第45刷を参照した【出版社ほか入手容易・デジタル版有/横浜市図書館貸出有】
  • 数字錠(島田荘司):初出1985(昭和60)年「EQ(11月号)」掲載。1987(昭和62)年講談社「御手洗潔の挨拶」所収、1991(平成3)年講談社文庫版「御手洗潔の挨拶」所収、本稿は2008(平成20)年6月発行講談社文庫版第34刷を参照した【出版社ほか入手容易・デジタル版有/横浜市図書館貸出有】
  • タイムカプセル/理由(ふかわりょう):2002(平成14)年メディアファクトリー「ムーンライト・セレナーデ」(単行本)所収。本稿は2002(平成14)年9月27日発行の初版第1刷を引用した【出版社在庫不明/横浜市図書館貸出有】
  • SANS SOLEIL(サン・ソレイユ)(ふかわりょう):初出2022年11月新潮社「ひとりで生きると決めたんだ」(単行本)所収。本稿は2022年12月10日発行新潮社(単行本)2刷を引用した【出版社ほか入手容易・デジタル版有/横浜市図書館貸出有】

)この記事は「新横浜新聞~しんよこ新聞」「横浜日吉新聞」の共通記事です

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