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港北が舞台の文芸作品(2)綱島編「前編」

港北区が登場する書籍を紹介していく連載「港北が舞台の文芸作品」第2回綱島を舞台とする作品から温泉街を中心に昭和の風景と著名人を交えた人間模様、そして綱島が生んだ“ヒーロー”の姿を前編・後編に分けて探ります。

港北が舞台の文芸作品(2)綱島編「前編」

「港北区が舞台の文芸作品」連載について
  • この連載はかつて横浜日吉新聞に掲載した「日吉本・綱島本ブックレビュー」が2回で休止となっており、再開にあたって対象を港北区全体に広げたうえで新たな連載企画としたものです。
  • 主に小説と随筆、漫画を含むフィクションを交えた作品を中心に、港北区が登場する文芸作品を2024年6月から全6回にわたって紹介します。
  • 文中の作家名人物名敬称略」統一しました。また、作品の公開年は初出時とし、書誌の詳細と文中に引用した版は本ページ下部にまとめて掲載しています。

大正前半に樽町で発見され、東京横浜電鉄(現「東急東横線」)の開業で発展し、1970年ごろまで綱島駅の周辺で繁栄が見られた「綱島温泉」。

日本近現代史研究者の吉田律人(横浜都市発展記念館)によると温泉街は1930(昭和5)年ごろから綱島駅付近を中心に形づくられ、1935(昭和10)年から1937(昭和12)年にかけてもっとも繁栄。戦時の休止を経て、戦後は1949(昭和24)年に横浜で開かれた「日本貿易博覧会」を機に“復興”が加速し、1955(昭和30)年代に最盛期を迎えたと言われています。

まず前編では温泉街の描写を中心とした作品を歴史順に取り上げ、後編は綱島に関わる人物と作品を紹介します。

戦前の温泉、蛙の音と二人連れ花街

文芸作品で見ると、戦前に綱島温泉を創作の舞台としたものは数少なく、発展前夜といえる時代に「啼(な)く蛙(かえる)」を題材とした俳句が幾つか残されていました。

桃は実になりかゝり田は蛙哉(黄雨)

変電所城とも見えて遠かはず(蘇子)(※)

鉱泉が黒い黒いと啼く蛙(禾刀)

赤黒き水湧く里や啼く蛙(美香子)

桃畑は沼に限られ啼く蛙(浦郎)

遠き灯は変電所なり啼く蛙(尺予)

(江副浦郞「綱島温泉吟行記(二)」)

※編注:「遠かはず」は蛙の声=季語。漢字の旧字体は新字体に換えて掲載した

これらは1931(昭和6)年4月、戦後は日帰り温泉「東京園」へ変わることになる場所で営業していた旅館「桃仙閣」に同人5人で宿泊した際の俳句です。「筑波」(にひはり社)という同人誌的な月刊誌に「綱島温泉吟行(ぎんこう)記」として2回にわたって掲載されました。

「綱島温泉吟行記(二)」の俳句は旧字体で書かれている(にひはり社「筑波」1931年7月号=国会図書館デジタルコレクションより)

当時は蛙の鳴き声がこだまする水田や桃畑のなかに旅館が置かれ、駅東口の宿からは綱島東6丁目(当時は南綱島町)に完成したばかりだった変電所(1929年完成の大同電力東京変電所、現東京電力綱島変電所)までが見渡せたようです。

それから5年超が経ち、戦前の綱島温泉がもっとも繁栄していたと言われる1937(昭和12)年に発行された「療養本位温泉案内 関東篇(増補)」(白揚社)と題したガイドブックには「綱島温泉音頭」の歌詞が残されていました。

<綱島温泉音頭>

ハア桃は畠(はたけ)に桜は土手に

お湯の綱島

お湯の綱島花吹雪

ソレ

さつても綱島よいところ

手拍子そろへて

ヨーイヤサ

ハア温泉(おゆ)のラヂウムほんのり利いて

とても綱島

とても綱島夢うつゝ

ソレ

宿で“蛙の鳴き声”を聞きながら俳句を吟じていたような環境は、わずか5年ほどで「花吹雪」や「手拍子」が似合う場へと変わり、すでに綱島温泉が華やかな場となっていたことが歌詞からも感じ取れます。

この「療養本位温泉案内」では綱島温泉について、「此處(ここ)は鑛泉(こうせん)場といふよりもランデヴーの會場(かいじょう)で、旅館の設備も悉(ことごと)くさういふ(そういう)風に出来て居(い)るし、藝妓(げいき)もうようよと居て、まるで全體(ぜんたい)が一つの大きな花街氣分」などと評しています。

1937(昭和12)年に白揚社から刊行された「療養本位温泉案内 関東篇(増補)」の綱島温泉のページ。住所を「横濱市鶴見區綱島」としているのは誤りで、まだ港北区の無い当時は神奈川区(国会図書館デジタルコレクションより)

当時は乗降客が少なかったであろう綱島温泉駅に2人連れで下車するのは「気がひける」とさえ言われているといい、「一驛(えき)手前か或(ある)ひは向ふで降りて、ブラブラ歩いてゆくといふ法(て)もある」として日吉駅や大倉山駅から徒歩で目立たぬようにアクセスする方法をアドバイス。

各旅館は浴場付きの小さな“離れ座敷”が多いため、玄関を通らずに裏口や横門から自由に出入りできることも紹介していました。

こうした“二人連れ”に最適化された環境もあって、この頃の綱島温泉の旅館では男女の心中事件が流行し、当時の新聞紙面を賑わすのですが、こうした事象を文芸作品として残した形跡は見当たりません。

旅館時代の東京園へ押しかけた男

このほか、戦前の綱島温泉の数少ない記録としては、演劇人から国税庁の広報職員となり、その後に自衛隊の文官へ転じた異色の経歴を持つ山口晋平(1909年~1987年)が戦後の1952(昭和27)年に著した随筆集「白い役人」のなかで思い出話として残しています。

(略)二人が先に帰り、金を工面して迎えにくるということになった。二人だって東京まで帰れない。六日目の夜の興業が終わると、南君と私は東横で綱島温泉まで行った。綱島の東京園(当時は今と場所は違っているが、経営者は同一人だ)の若旦那中村忠相は、成城の同級生だ。

その頃の東京園は大衆浴場ではなく、料理屋と旅館をやっていた。東京園に十一時過ぎに着いたら、忠相は東京へ行っているという。私は例のかびを生えた靴をはいているから、お客づらはできないが、今更帰るという訳にもいかない。上りこんで風呂に入り、チェリーと酒を頼んで、一杯やっていた。終電車で忠相が帰って来た時は、ほっとした。

(山口晋平「口だて芝居」=「白い役人」所収)

※編注:「チェリー」は筆者が好んでいたタバコの銘柄

筆者である山口晋平は知り合いの貧乏劇団の巡回公演を手伝うことになり、横浜あたりで演じていたものの、“口減らし”のため都内へ帰宅する3人の交通費さえ出せないほどに劇団が困窮。先行した2人が何とか綱島温泉までたどり着くことができた、という思い出話です。

山口は創業者の息子(若旦那)と同級生だったという縁を頼りとし、戦前は現在のイトーヨーカドー綱島店(綱島西2)付近に置かれていた温泉旅館時代の「東京園」へほぼ無一文で押しかけました。

山口晋平の貴重な写真付きプロフィール(1956年8月号「月刊自衛」日本保安時報社に掲載された山口の「物言う術~アマチャー演劇心得帳」より=国会図書館デジタルコレクションより)

同著書には、山口が高校生だったころ、同人雑誌の仲間だった中原中也(詩人、1907年~1937年)がビールを飲みたいがために、それほど仲が良いわけでもない山口の家を訪ねてくるので母親が嫌がったなどというエピソードも書き残しており、この時代の若者にとって、こうした行動は普通に行われていたのかもしれません。

なお、山口は戦後の日本を震撼させた事件をきっかけに注目を浴び、東京園とも関わることになるのですが、これは「後編」で紹介します。

参考:戦前の綱島温泉については横浜日吉新聞で2022年3月17日に掲載した吉田律人の講演「<港北地域学>綱島温泉の始祖「樽町」はなぜ温泉街が発展しなかったのか」の記事で紹介しています。また「東京園」については「戦前は西口ヨーカドー付近にあった『東京園』、綱島温泉をめぐる3つの意外な歴史」に詳細があります

敗戦風景と“二人連れ商売”の場

戦時は兵隊や学徒動員時の宿舎などに転換され、一度は温泉街の灯が消えた綱島。戦後も“二人連れ”が似合う街として復活していたことを自らの体験を通じて発表したのが作家の田中英光(1913年~1949年)です。

「暗黒天使と小悪魔」が収録された講談社文芸文庫の「田中英光デカダン作品集」

太宰治(1909年~1948年)の弟子としても知られる田中は、前年に愛人と心中した師匠・太宰を追うように墓前で大量の薬を服用し手首を切って命を絶つのですが、その直前に書かれた短編の一つが1948(昭和23)年発表の「暗黒天使と小悪魔」でした。

「ああ分かったよ。早く値段をいえよ」とせかし立てた。すると女は小狡(こずる)そうに、享吉の顔を仰ぎながら、一句一句考えるように、「あのね、綱島温泉の上等のホテルでね、泊まり代からボーイのチップまで全部、含めて千円よ」、「よし、ゆこう」と、そうした女の相場を知らない享吉は、ただその時、約三千円ばかりの金を、家から持ってきていたので、それなら足りると思うが早いか、こう叫んだ。

(略)

「おい、そのホテルに酒あるか」ときくと、女は無造作に、「あるわよ。酒でもビールでも、ただお金次第よ」と叫んでから、亮吉をたっぷり持っている客と睨んだらしい。

(田中英光「暗黒天使と小悪魔」)

作者の田中英光自身を思わせる主人公の「享吉」は、「恥ずかしい敗戦風景が闇の中で展開されていた」という有楽町の「日劇」(現有楽町マリオン)付近で声をかけた女の一人である“婆天使”とともに綱島温泉へ向かいます。

直前には編集者から紹介された「新橋マーケットの中の、或(あ)る秘密の飲み屋」で「純アルコールを加工したものとみえる白っぽい酒」をかなり飲んでおり、敗戦後3年ほどを経たに過ぎない当時は正規の酒類を入手するのが難しかったとみえ、女にも酒の有無を尋ねています。

 桜木町行の電車は、午後十時を過ぎでも、相変わらず、満員だった。暗黒天使をすぐ右横に引連れた享吉は正気なら、当然うんと照れ臭い思いをしたのであろうが、なにしろ泥ンこに酔っていたので、仮に、そこに知人がひょっこり乗っていたとしても、(それはただ七十の老母を除いては)一向平気な気持ちだった。

(略)

そうこうしているうちに、やっと綱島温泉駅に着いた。その淋しい駅のホームに、頭の前髪を額にきりさげ、ラグビーのユニフォームじみた縞の襯衣(はだぎ)に、胸を膨らませ、青いズボンを穿いた、少年じみた娘がひとり立っていた。

(略)

やっと着いたホテルは、アパートと呼んでもよさそうな、二列上下に部屋があり、真ん中の廊下に赤い薄い絨毯(じゅうたん)のしかれただけの、細長い建物だった。女は、迎えに出た顔馴染みらしいチョビ髭のマスターに、「まあ、ずいぶん、お立派になったわねえ」とか取ってつけたようなお世辞をいい、マスターから部屋の番号をきくと、その二階の片端の部屋に、享吉を、ずんずん勝手に案内した。その部屋は座敷の二方が開いており、このホテルの中では、一番上等に近い部屋のようだったが、大男で、夏中ずっと泳ぎ暮らしてきた享吉には、むやみに狭く暑苦しい感じで、彼はたちまち、褌一つの裸になると、……(略)

(田中英光「暗黒天使と小悪魔」)

この当時、東京都心の暗闇に立っていた女たちの“商売の場”としても綱島温泉が活用されていた様子で、駅のホームでみかけた「青いズボンを穿いた、少年じみた娘」とは翌日夜に有楽町でばったり出会い、再び“二人連れ”となって綱島温泉を訪れています。

作者は戦前に横浜護謨(ゴム)に勤め、鶴見の独身寮で暮らした経験があり、「綱島=綱島温泉」というイメージが抜けきらなかったのか、戦後は「綱島」に変わっていた駅名を文中に誤って記しているようです。

本作品は2日間にわたる自身の行動を綴った私小説となっており、ひたすら破滅へ向かって突き進みつつある田中英光の心模様と、戦後間もない都心や綱島温泉街の風景を書き残している点が見どころといえます。

参考:田中英光「暗黒天使と小悪魔」については、2019年8月14日に横浜日吉新聞に掲載した「『綱島温泉』での貴重な行状記、太宰治の墓前で絶命した退廃作家が遺す」に詳細があります

山岳小説の大家が残した意外作

昭和30年代の綱島温泉を描写した意外な作家新田次郎(1912年~1980年)がいます。日本の山岳小説を切り拓いてきた大家が1963(昭和38)年発行の女性向け雑誌で、密かに残していた作品の一部がこちらです。

 ふたりは綱島に途中下車した。綱島温泉という文字や、おふたり様お休憩五〇〇円などという広告文が登代子の目に止まった。

「温泉がでるの、こゝ」

「でないさ、おそらく鉱泉だろうが、昔から綱島温泉って有名なんだ、静かで上品な町なんだ」

登代子にはそうはうつらなかった。確かに、駅の近くには、温泉という文字を見掛けるけれど、温泉町らしくもないし、上品で静かな町にも見えなかった。ひどくせわしそうに動く、ほこりっぽい町に思えてならなかった。

(略)

中年の女が出て来て、玄関に突っ立っているふたりにいらっしゃいませと云った。声をかけながら、ふたりの姿を嘗(な)めるような眼で見た。

「お休憩ですか、お泊りですか」

女は伊田に小さい声で訊(き)いた。登代子はふと、伊田にだまされたのではないかと思った。

「ダンスはどこでするの」

登代子は暗い部屋に案内されたとき恐怖を顔に現わしていた。部屋は二間続きで入口の三畳間にふたりは向かい合った。隣室の六畳にはふとんが敷いてある。

(略)

「私は帰らしていたゞきます」

登代子がいった。登代子は身の危険を予知した。

さっきの女が、お茶を運んできて、ふたりの前に置くと、ごゆっくりどうぞと出て行った。廊下に出てから、一つせきばらいをした。それが登代子には、あてつけと、軽蔑と冷やかしに聞えた。

伊田が立っていて、入口のドアーの掛け金をおろした。登代子は身体をふるわせた。貧弱な旅館でありながら、ドアーがついており、内側から掛け金がかゝるようになっているところなぞ、たゞの宿ではなかった。

(新田次郎「山が裁いた」)

この「山が裁いた」は東京オリンピックが開かれる1年ほど前、1963(昭和38)年8月号の「婦人生活」という女性誌に「ミステリーシリーズ」として連載された読み切りの短編作品です。

雑誌「婦人生活」の1963(昭和38)年8月号に掲載された新田次郎の作品「山が裁いた」(国会図書館デジタルコレクションより)

女性を食い物にして放り出すことを繰り返してきた主人公の「伊田富雄」が、ダンスパーティーで知り合った「登代子」を“連れ込む”シーンで綱島温泉の宿が使われました。

部屋は三畳と六畳の二間続きで、「貧弱な旅館でありながら、ドアーがついており、内側から掛け金がかゝるようになっている…」といった具体的な描写が盛り込まれています。

この作品は、主人公の伊田が次第に登代子を煩わしくなり、群馬県あたりの山中で遭難を装い放置して殺そうとたくらむのですが、逆に自らが遭難し、男だけが力尽きて死んでしまうというストーリー。

直木賞作家でのちに山岳小説の大家となる新田次郎の作品としてはふさわしくなかったためか、本作が単行本などに収録された様子は見られず、60年以上経った現在はほぼ目にする機会はないのですが、昭和30年代の綱島温泉を振り返るうえでは貴重な記録となりました。

地元作家が見た綱島の盛況と風刺

 そう言えば、大綱橋下の川べりに少し桃の樹があるだけで、今、五十軒程もあるラジューム温泉宿は、アベックの男女で押すな押すなの繁昌振り、桃の花だけ見て帰る人の訪れはない。

(略)

先頃までは、雪の中を濡れながら、遠い在所から野菜類を手車で運ぶ姿を見かけたが、近頃は、農家の人もレインコートを着、オートバイでガタガタ肥桶を運ぶので、一段とかおりが発散する。その道路を温泉旅行の臭い仲の男女が手をつないで行くから面白い。

(内山順「綱島」=「五本の樫の木」所収)

この皮肉めいた内容を1962(昭和37)年発行の随筆集「五本の樫の木」に載せたのは、菊名在住実業家・作家内山順(したごう)(1890年~1968年)です。「順」の名は音読みの「じゅん」ではなく、“したがう・素直”といった漢字の意味通り「したごう」と読ませています。

現在は「錦が丘」の地名が付けられた菊名駅西口近くの住宅街に1930(昭和5)年から35年間にわたって住んだ内山は、都内で運送会社を経営しながら、時間を見つけては港北区周辺を歩き回って9冊の随筆集を残しました。綱島は顔なじみの八百屋があったことからたびたび訪れていたようです。

菊名在住の実業家・作家の内山順(したごう)が6冊目の随筆集「五本の樫の木」に掲載した「綱島」

本作は、現在も綱島東2丁目に残る「神明社」の祭りが「桃」から「桜」に変わったことを取り上げたもので、桃畑が料理旅館に変わりつつある様子を「お湯の中での花が咲くようになっては、神明様も面白くなく…」などと、風刺を効かせて書き残しました。

東海道新幹線が開業(1964年10月)する2年ほど前の時期でも、桃畑や田畑を残していた綱島の街がさらに開発されつつあったことがわかる小作品です。

なお、内山順については本連載の第6回で別途紹介します。

参考:内山順に関しては朝日新聞販売店ASA大倉山・大倉山東部が発行する「大倉山STYLEかわら版!」で、大倉精神文化研究所が連載する「大好き!大倉山」の第63回「忘れられた作家? 内山順(したごう)」(2021年10月15日発行)と第64回「内山順が見た昭和30年代の港北」(2021年11月15日発行)に詳しく掲載されています

流行作家が舞台に選んだ「寒い朝」

田中英光、新田次郎と2人の作家が描いたどろどろとした“連れ込み模様”と、地元在住作家・内山順の皮肉を交えた小作品に続いては、当時の流行作家・石坂洋次郎(1900年~1986年)の小説による少し微笑ましい綱島温泉の光景を紹介しましょう。

「貴方に土地カンの利くところがあって――?」

「あるよ。日吉のつぎが綱島だろう。ここには温泉旅館が沢山あるんだ。オヤジの縄張りでもあるが、そこだったら、オレ恐くないんだがな」

(略)

二人は、夕方に出てきた道を逆に辿って、綱島に行った。着いたのは十一時ごろだったが、土地柄か、街に下りると、まだ宵の刻らしいざわめきが漂っていた。どこからか絃歌の音も聞えて来たりした。

二人は街を一と廻りしたあげく、奥まった、わりと静かな所にある「すずらん荘」という旅館を選んだ。門を入っていくと、肥えた、年配のお上さんらしい人が、玄関でなにか用をしていたが、二人の姿を見かけると、床に坐り直して、もの慣れた調子で、

「いらっしゃいませ。お泊りさんでございますね」

「ええ。そうなんです。……泊まって、朝飯を食べるとしたら、一人いくらでしょうか。中くらいのお室でいいんですけど……」

「きれいな室の方がいいよ」

と、重夫が傍から口を出した。

「だめよ。出来るだけ辛抱しなけあ……。あの中くらいよりもっと安くていいんです」

肥ったお上さんは微笑して、

「それはどんな身分の方でも、それぞれ辛抱なさいませんとね。それでは中くらいにしましょう。……朝飯がついて、五百円に勉強しときますけど……」

「それじゃあお願いしますわ」

お上さんは、中年の女中に、二人を、二階の奥の、つぎの間つきの八畳の座敷に案内させた。雨戸をしめきって、外は見えないが、床なども立派で、わるくない座敷だった。

女中はすぐガス・ストーブをつけて、お茶の仕度にかかった。

(石坂洋次郎「寒い朝」)

日吉の内科小児科「三輪医院」の息子で医師の父親と暮らす主人公の「重夫」は港南学院の高校3年生。同級生の“とみイ”こと「とみ子」は逆に父を亡くし、都立大学駅近くで母親と暮らします。

とみ子の母が重夫の父とよからぬ形で会っている、という勘違いからとみ子の家出に至り、重夫も“巻き添え”の形で連れ出されるのですが、受験生なので家出中も勉強をしなければならないと夜は綱島の旅館に向かいます。

勉強に疲れ、蒲団を離して寝ていた二人が広げたままだったノートや教科書から重夫の名前が分かり、旅館の“年配のお上さん”が日吉の三輪医院の子だと気付いて急ぎ連絡。深夜に両方の親がやってきて“家出”はわずか半日もしないうちに終えることになりました。

迎えにきた親とともに、そのまま旅館に泊まり、翌朝が本作のラストシーンとなります。

昨夜は分からなかったが、窓ガラスの外には、陽を浴びた明るい田園の風景がひらけていた。

「朝の御飯ってじっさいうまいなあ」

と、重夫が、熱い汁をフウフウ吹きながら云った。

(略)

「重夫さん、外へ出て景色をみて来ましょうよ。今朝など霜柱がいっぱい立っているでしょうね」

「行こうか、とみイは街中に住んでいるから、この程度の田舎の景色でも珍しいんだな。……お父さん達も行かないかな」

「まあ、行って来いよ。年寄はこんな寒い朝は火の傍がいい……」

二人は、宿の下駄をつっかけて、裏口から外に出た。そこには小さな川が流れており、川向うに田圃がひらけ、その後には、冬枯れのした林におおわれた丘が、丸い形で幾重にも重り合ってつづいていた。

空気にもやが流れているのか、朝の太陽がボンヤリ曇ってみえた。川の堤をつたっていくと、白い霜柱がザクザクと崩れる。東から西に向かって、鉄塔が立ち並び、その間に垂れ下がっている高圧線は、まるで流れているように動きのあるものに見えた。

(石坂洋次郎「寒い朝」)

1959(昭和34)年3月に刊行した「週刊現代」の創刊号から14回にわたって連載され、同年8月に単行本化された「寒い朝」。

1963(昭和38)年に刊行した角川文庫版の「寒い朝」、このほか講談社文庫版では電子版もある

主人公の重夫に「とみイは街中に住んでいるから、この程度の田舎の景色でも珍しいんだな」と語らせていますが、鶴見川の先に水田が一面に広がる樽町・大曽根の風景は昭和30年代の見どころの一つだったようで、石坂洋次郎がラストシーンの舞台に選んだだけでなく、先に紹介した内山順(したごう)も複数回にわたって作品中で描写しています。

後に吉永小百合が出演し「赤い蕾と白い花」(1962年、日活)という題名で映画化された際には、舞台を田園調布や多摩川あたりに変えられてしまったのですが、当時の流行作家が綱島温泉美しい形で書き残したのは、大きな価値があることではないでしょうか。

綱島の芸者総あげ「大宴会」と顛末

石坂洋次郎の“健全”かつ美しい描写で綱島温泉の作品紹介を終えられればよかったのですが、当時の温泉街が担ったもう一つの重要な役割に触れてから後編の「人物編」に移ります。

 鈴木の綱島支店長時代、相原は組合の綱島支店分会長だった。二人のつきあいは十年以上に及ぶ。

(略)

鈴木は分会長時代の相原と綱島温泉の料亭“水明”に繰り出して、芸者遊びをした仲である。

十二月三十日の“綱友会(こうゆうかい)”の忘年会は、必ず“水明”で綱島芸者総あげのドンチャン騒ぎになった。

“綱友会”の綱は、綱島の綱を取って“交友会”をもじった親睦会で、綱島支店に勤務する従業員は全員会員だった。年一度のドンチャン騒ぎのために、共済会の積み立てのほかに、支店の売店で上がった利益も経費に充てられた。

(高杉良「小説ヤマト運輸」)

経済小説の巨匠といわれる高杉良(1939年~)が取り上げた大和運輸(現「ヤマト運輸」)の綱島支店に関する記述は、1963(昭和38)年9月に綱島東5丁目(当時は「綱島町広町」と表記)で大和運輸のトラックターミナル(現マンション「シティテラス横濱綱島ガーデンズ」)が竣工した頃の思い出話で、同社が「宅急便」を始める10年ほど前のことです。

「水明」は綱島西にあった老舗の主要旅館で、周辺企業や団体などが芸者を呼んで開く宴会は温泉旅館の重要な役割となっていたことがうかがえます。

2013(平成25)年刊行した新潮文庫版の「小説ヤマト運輸」、電子版は無いが古本は比較的容易に入手できる

同作品によると、綱島支店による“綱友会”の宴会は、トラックターミナルが完成した1963(昭和38)年から始まり、後に宅急便を生み出す小倉昌男(1924年~2005年)ら経営幹部も参加して運転手らと酒を酌み交わしていたと言われています。

ところが、1965(昭和40)年の宴会時に参加者の誰かが芸者に狼藉をはたらいたことから、綱島の芸者組合が怒り、水明からも出入り禁止を言い渡されたことを機に綱友会は解散に追い込まれた、と「小説ヤマト運輸」に記されていました。

旅館もトラックターミナルも揃ってマンションに変わり、芸者が活躍した面影さえ感じられなくなった今の綱島では、ほとんど覚えている人もいないであろう苦笑いするようなエピソードといえます。

続く「後編」では綱島に関わる人物に焦点を当て、舞台となっている文芸作品を紹介します。引き続き「<港北舞台の文芸作品2>三橋美智也・東京園と名探偵シリーズが彩った綱島」もご覧ください。

今回紹介した書誌の詳細

)書誌詳細やリンク先は2024年7月時点のものです。入手困難な書誌に限り図書館の書籍案内ページにリンクしました

  • 綱島温泉吟行記(一)/綱島温泉吟行記(二)(江副浦郞):1931(昭和6)年にひはり社「筑波 (6月号)」「筑波 (7月号)」所収。本稿は1931(昭和6)年7月1日発行版「筑波7月号(第41号)」を引用した【出版社ほか入手困難/国会図書館デジタルで公開(筑波6月号/筑波7月号)】
  • 綱島温泉音頭(温泉調査会編):1937(昭和12)年白揚社「療養本位温泉案内 関東篇(増補)」所収。本稿は1937(昭和12)年4月15日発行版を引用した【出版社ほか入手困難/国会図書館デジタルで公開】
  • 口だて芝居(山口晋平):1952(昭和27)年北書房「白い役人」所収。本稿は1952(昭和27)年5月25日発行版を引用した【出版社ほか入手困難/神奈川近代文学館所蔵/国会図書館デジタルで公開】
  • 暗黒天使と小悪魔(田中英光):初出1948(昭和23)年雑誌「諷刺文学」第7号。1965(昭和40)年芳賀書店「田中英光全集(第7巻)」などに所収、2017(平成29)年講談社文芸文庫「空吹く風/暗黒天使と小悪魔/愛と憎しみの傷に~田中英光デカダン作品集」に所収。本稿は講談社文芸文庫版の2017(平成29)年7月発行の第1刷を引用した【講談社文芸文庫版は出版社ほか入手容易・電子版あり/横浜市図書館(講談社文芸文庫・田中英光全集第7巻)貸出有/国会図書館デジタルで田中英光全集第7巻を公開】
  • 山が裁いた(新田次郎):1963(昭和38)年婦人生活社「婦人生活(1963年8月号)」(ミステリーシリーズ連載4)所収。本稿は1963(昭和38)年8月1日発行第十七巻第九号同誌掲載版を引用した【出版社ほか入手困難/国会図書館デジタルで公開】
  • 綱島(内山順):1962(昭和37)年小壷天書房「五本の樫の木」所収。本稿は1962(昭和37)年7月15日発行版を引用した【出版社ほか入手困難/横浜中央図書館神奈川県立図書館神奈川近代文学館で館内閲覧のみ可/国会図書館デジタルで公開】
  • 寒い朝(石坂洋次郎):初出1959(昭和34)年4月12日号~7月12日号「週刊現代」連載。1959(昭和34)年講談社(単行本)、1963(昭和38)年角川文庫版、1963(昭和38)年「現代の文学10 石坂洋次郎集」所収、1966(昭和41)年「石坂洋次郎文庫(第13)」所収、1973年旺文社文庫版、1978(昭和53)年講談社文庫版(電子版有)。本稿は1967(昭和42)年3月発行角川文庫版17版を引用した【出版社(講談社)在庫不明/横浜市図書館所蔵不明/神奈川県立図書館「現代の文学10 石坂洋次郎集」貸出可/国会図書館デジタルで講談社単行本角川文庫版を公開】
  • 小説ヤマト運輸(高杉良):初出1995(平成7)年徳間出版。1997(平成9)年徳間文庫版、2000(平成12)年講談社文庫版(「挑戦つきることなし・小説ヤマト運輸」に改題)、2013(平成25)年新潮文庫版。本稿は2013年8月発行新潮文庫版(初版)を引用した【出版社(新潮社)在庫不明/横浜中央図書館(講談社文庫版新潮文庫版)貸出有】

)この記事は「新横浜新聞~しんよこ新聞」「横浜日吉新聞」の共通記事です

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<港北舞台の文芸作品2>三橋美智也・東京園と名探偵シリーズが彩った綱島【後編】(2024年7月10日)

<港北が舞台の文芸作品1>若さと虚無を描いた芥川賞3作家の“慶應日吉三部作”(2024年6月27日、本連載の第1回)

「綱島温泉」での貴重な行状記、太宰治の墓前で絶命した退廃作家が遺す(横浜日吉新聞、2019年8月14日、田中英光の「暗黒天使と小悪魔」を紹介)

連載「港北が舞台の文芸作品」の一覧(2024年6月~)