“大倉山”の源流をたどってみませんか。大倉山記念館では、今月(2021年)1月17日(日)まで「大倉邦彦と大倉山記念館~世のために田を耕す」と題したパネル展示会を同館内ギャラリーで開催中です。大倉山の地名のもととなった記念館と創立者の歩みを通じ、なぜこの地に誕生したのかがわかる内容となっています。
今回の展示会は、大倉山記念館を建設した実業家で教育者の大倉邦彦氏(1882~1971)の歩みを、故郷の佐賀時代をはじめ、その後の幅広い交友関係や活動内容を丁寧にたどっているのが特徴です。
今から約140年前の1882(明治15)年に佐賀県神埼郡(佐賀市の隣にある現在の神崎市)の士族だった江原(えはら)家で生まれた江原邦彦青年がその後、洋紙問屋の経営者である大倉家の養子となり、実業家として活躍するまでを振り返る展示から始まります。
佐賀藩から生まれた武士道「葉隠(はがくれ)」の精神を身につけた故郷に別れを告げ、上海の大学「東亜同文書院」での学びを経て洋紙問屋の現地拠点へ就職したのが1906(明治39)年。
12年後には経営者に抜擢されて複数の企業を運営することになる一方、目黒区での幼稚園設立や佐賀県での学校設立など教育活動に力を注ぎ続けたといいます。
そうした教育活動の集大成として、1932(昭和7)年には私財を投じ、当時の太尾町の丘に大倉精神文化研究所を設立。他に例がないと言われる「プレヘレニック様式」による白亜の殿堂を大倉山の地に建設しました。
現在、建物は横浜市所有の公共施設「大倉山記念館」として生まれ変わりましたが、研究所は大倉氏の死後に財政難の危機に見舞われながらも、公益財団法人の研究機関・図書館として創立者の精神を受け継ぐ活動を続けています。

大倉精神文化研究所などによるパンフレット「創立者大倉邦彦 プロフィールとその業績」より
展示会では、東急の創設者である五島慶太氏から大倉山の地を購入した経緯や、大倉精神文化研究所として座禅などの精神教育の場だった頃の記録、市内に図書館が不足していた頃から地域に広く開いた大型図書館としての役割、さらには研究所の建物維持が難しくなっていた頃の写真など、現在まで90年近くにわたる歩みを振り返ることができます。
また、昔の大倉山駅やエルム通り、レモンロードなど、大倉山の街の記録もあわせて展示されており、地域を写した懐かしい写真も見どころとなりそうです。
主催は大倉精神文化研究所で、開催は1月17日(日)までの毎日10時から17時。入場は無料です。
【関連記事】
・情熱家が歩んだ大河のような90年、大倉山の元祖をマンガ伝記に凝縮(2021年12月27日、大倉邦彦氏の伝記を刊行)※リンク追記
【参考リンク】
・「大倉邦彦と大倉山記念館~世のために田を耕す」(12月9日~1月17日)開催の案内(大倉山記念館Facebookより)
・よくある質問~大倉精神文化研究所FAQ(大倉山記念館などに関する素朴な疑問にわかりやすく回答)