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港北区の小学3年生に使われていた社会科の副読本「わたしたちの港北区」(1969=昭和44年4月発行版)

港北区の小学3年生に使われていた社会科の副読本「わたしたちの港北区」の1969(昭和44)年4月発行版(横浜市立図書館デジタルアーカイブより)

約半世紀前に港北区の小学3年生に使われていた社会科の副読本「わたしたちの港北区」という資料がインターネット上に公開され、誰でも読めるようになっていることがわかりました。高度経済成長期に使われ始めたというこの資料集。今読むと、懐かしさや驚きとともに、「歴史は繰り返す」という側面も感じさせられます。そんな貴重な一冊をご紹介します。

わたしたちの港北区は、区内の教員らによって1960(昭和35)年6月に初めて小学3年生を対象に作成された約150ページ弱の副読本。毎年少しずつ改訂が行われてきたようで、このうち、1969(昭和44)年4月に発行された第10版を横浜市中央図書館がスキャンし、「横浜市立図書館デジタルアーカイブ」としてPDF形式にて一般公開しているものです。

同資料集のまえがきには、「港北教育研究会長」の名で、「横浜市の中で、港北区はこれからもどんどん発展し近いうちにびっくりするほどりっぱな区になることでしょう。みなさんは、この本をつかって、港北区のむかしから今までのようすをしらべ、港北区をりっぱな区にするにはどうしたらいいか考えてください」と書かれています。

1969(昭和44)年10月までの巨大な港北区(横浜市立図書館デジタルアーカイブより)

1969(昭和44)年10月までの巨大な港北区(横浜市立図書館デジタルアーカイブより)

まず開いて驚かされるのは、当時の区内地図。たまプラーザや長津田など、東京都との境界あたりまで、現在の緑区や都筑区の全域が港北区となっているのです。

  • 港北区の土地の広さは、横浜市の区のなかで一番で、市全体のおよそ 三分の一近くもあります。(p10)
  • 東の日吉町から、西の奈良町(現青葉区)まではだいたい17キロメートル、南の上菅田町(かみすげた=現保土ヶ谷区)から、北の元石川までは、だいたい13キロメートルあります。(p10~p11)

この資料集が発行された年(1969=昭和44年)の10月には、東急田園都市線の沿線周辺が緑区として分区されるため、1939年(昭和14)年に発足した当時のままの“巨大港北区”を感じられる最後の地図ということがいえます。

1969(昭和44)年4月当時の港北区における工場一覧(横浜市立図書館デジタルアーカイブより)

1965(昭和40)年当時の港北区における工場一覧、今は多くがマンションや住宅地、商業施設などに変わって残っていない(横浜市立図書館デジタルアーカイブより)

そして、イラスト地図のなかに書かれた主要施設や工場の多さも見どころで、綱島街道の日吉から綱島にかけての周辺には、現在では残っていない工場が多数書き込まれています。

  • 区内の工場は、ほとんど小さい工場ですが、ちかごろ大倉山などからみおろすと、たくさんのじゅうたくにつづいて、大きな工場がつくられているのがわかります。(p82)
  • それはこのへんが工場をたてるのにいろいろとつごうがよいからです。ですから昭和28年には、工場が111工場、はたらく人が2578人でしたが、昭和35年には工場が155、はたらく人が5647人にもなって、工場のかずや、はたらく人がわずかのあいだにどんどんふえています。(p82~p83)
  • わたしたちの町をずっと見わたしてみましょう。ブルトーザーやトラックをつかって、田んぼを埋めたり、山をくずしたりして、小さな工場や大きな工場がつくられてはいませんか、もうできあがったところもあるでしょう。(p83)

この記述から約半世紀が経過して2017年になりましたが、「工場」という部分を「マンション」や「一戸建て」に置き換えてみれば、今でも使えそうな文章です。

86ページから87ページには、区内の主要工場の一覧表も載っています。現在ではほとんどがマンションや商業施設などに変わっており、半世紀の間に港北区が果たす役割が変わったことを感じられます。

未舗装のでこぼこ道、横浜線の過酷なラッシュ

上丸子線(綱島街道)や菊名駅前の写真が掲載されている(横浜市立図書館デジタルアーカイブより)

上丸子線(綱島街道)や菊名駅前の写真が掲載されている(横浜市立図書館デジタルアーカイブより)

同資料集の第2章には「道路とのりもの」と題し、当時の道路や鉄道、バスの環境が細かく記されています。

  • バスやトラックの行ききの多い所や、えきの前など、にぎやかな所では、アスファルトでほそうされていますが、区の大部分は、じゃり道です。道を立派にしたいというのは、港北の人みんなのねがいですが、道をほそうするにはたくさんのおかねがかかります。そのおかねはわたしたちのうちで、おさめているぜい金から出すのですが、ぜい金を道のほそうだけに使うわけにはいきません。ですからいますぐにほそうしろといってもむりなことなのです(p14~p15)

約半世紀前の厳しい道路状況を紹介するこうした記述とともに、上丸子線(綱島街道)や「せまい道ろ」の例として菊名駅前の写真も掲載されていました。

道路の状況に続いて紹介されている交通では、「横浜線」「東横線」「区内を走るバス」などのそれぞれで説明が行われます。

横浜線については明治41年からの詳しい歴史も紹介されている(横浜市立図書館デジタルアーカイブより)

横浜線については明治41年からの詳しい歴史も紹介されている(横浜市立図書館デジタルアーカイブより)

横浜線の部分には、こんな記述がありました。

  • 東京・渋谷・横浜・川崎などとれんらくするのぼり電車(東神奈川行きに)定員(きめられた数110人~140人)の三ばいの人が、おしあいへしあいしてのっています。6・7りょうつないでも、ぎっしりまんいんなので、鉄道のおじさんもお客さんもみんなこまっています。(p23~p24)
  • ですから朝のこんざつをなくそうと、鉄道のおじさんたちはがんばっているのだそうですが、横浜線は小机より先は単線ですから、つぎからつぎへと動かすことができないので、たいへんむずかしいようです。(p24)

50年ほど前の横浜線の混雑ぶりが伝わってくるような文章です。

昭和39年に日吉から地下鉄日比谷線への乗り入れが始まったことも紹介(横浜市立図書館デジタルアーカイブより)

昭和39年に日吉から地下鉄日比谷線への乗り入れが始まったことも紹介(横浜市立図書館デジタルアーカイブより)

また、東横線の項目では、各駅の現状について書かれています。

  • 区内の日吉駅にはつとめ人のほか、大学・高等学校・中学校があるため学生たちののりおりが特にめだっています。(p30)
  • 綱島駅は、バスが四方からあつまるため、バスからおりた人、とくに区内の荏田(えだ=都筑区)・大棚(おおだな=都筑区)などの奥地にはこの駅を利用する人が、たくさんいます。またちかごろ大きな工場ができたため、それに通う人たちもいます。このほかひるまは、温泉街のため温泉を利用する人の、のりおりがめだちます。(p30~p31)

日吉駅は現在とまったく変わりない状況ですが、綱島駅の記述は興味深く、区内の“奥地”であった現在の都筑区からバスを乗り継いでの利用者が多いとし、1960(昭和35)年に建てられた松下通信工業の工場(現・綱島東4丁目のTsunashimaサスティナブル・スマートタウン=綱島SST)に触れたとみられる一文もあります。また、当時はまだ温泉街が健在だったことも分かります。

約50年前のバス路線一覧、日吉や綱島では今とそれほど変わっていないことがわかる(横浜市立図書館デジタルアーカイブより)

約50年前のバス路線一覧、日吉や綱島では今とそれほど変わっていないことがわかる(横浜市立図書館デジタルアーカイブより)

一方、バス路線に関する説明も現在とまったく環境が異なっているだけに、驚きがあります。

  • 市営・東急がほとんどですが、このほか神奈川中央・臨港・相鉄・小田急など、6つものバス会社が、35もの路線を鉄道のない奥地の農村や駅から遠い住宅街などへ走らせ、鉄道線と連絡しています。(p34~p37)

こうした記述とともに、綱島や日吉駅などの区内駅を発着する路線一覧表も掲載。日吉駅から横浜駅西口や蒲田駅を結んでいた路線はもうありませんが、おおむね今と変わらないことに気づかされます。

ただ、当時ならではの問題点について、

  • バスが路線が、ふえても、バスの走る道路はでこぼで、しっかりつかまっていないと、ほうりだされそうにゆれます。そのうえに、道はばがせまいために、二台のバスがいきちがいをするのに、たいへん不便です。また、あめでもふると、どろ水でバスははやくはしれないありさまで、みんながこまっているこれからの大きな問題となっています(p39)

バス通りなのに狭いという問題は、今も区内全域で残されていますが、さらに当時は未舗装でもあったため、苦労がしのばれます。

東横線の両側にある田畑が次々と埋め立てられ……

現在とは異なり3つの区を含んでいた巨大な港北区(横浜市立図書館デジタルアーカイブより)

現在とは異なり3つの区を含んでいた巨大な港北区(横浜市立図書館デジタルアーカイブより)

資料集では、約50年前の港北区の様子が分かるあらゆる分野の内容が盛り込まれており、貴重な資料となっています。そうした記録面とともに、小学校3年生向けの副読本ならではの筆者(教員)の素直な思いが端々に見られるのも、興味深いところです。

特に締めくくりに書かれた一文は、約半世紀後に読んでも色々と考えさせられるものがあります。少し長いのですが、この副読本の良さがにじみ出ている部分なので、下記にほぼ全文を転載します。

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おだやかな港北区の町まちから山の中まで、都会の勢いはこう水のように流れこんできています。松林のおかにブルトーザーが朝から夜まで、いせいのよい音を立てて動いています。丘をけづり、谷をうめて、家をたてるための分じょう地や、工場のしき地などを作っているのです。みどりのおかは、すっかりかわって、赤土のもりあがったひなだんのようになってしまいます。

東横線の両側にある田や畑は、どんどんうめたてられて、じゅうたく地や、工場がつぎつぎとできています。横浜市でいちばん土地が広く、農家の多い港北区は、東横線や横浜線の近くをのぞいては、あまりひらけていませんでした。ところが近くの東京都や、川崎市のはってんと、横浜市の人口がひじょうにふえてきたので、じゅう宅や、工場を港北区にたてるようになってきました。

p170219p009

1968(昭和43)年当時の学校一覧、日吉台小は1335人、下田小は1225人、綱島小は1290人、大曾根小は1103人、篠原小は1131人、港北小は1058人、大綱中にいたっては1730人と児童生徒数が爆発的に増えていたことが分かる

みなさんは、大倉山にのぼって港北区のようすをもう一度見わたしてみましょう。ここからながめた町のけしきが、日、一日とひらけていく港北区のようすとみていいでしょう。

東の綱島、日吉から、西の新羽、小机の方をみると、新しい工場がつくられていくのが目にうつります。まわりのおかをながめると団地じゅうたくが立ちならび、山のようすが大きくかわっていることにおどろくことでしょう。

さあ、港北区の数年さきのことを思い浮かべてみましょう。弾丸列車(※東海道新幹線)がものすごいスピードで港北区を横切り、新しい横浜駅(※新横浜駅)のまわりには大きなビルディングが立ちならんでいます。広びろとした駅前からは、ほそうされたりっぱな通りが、横浜の港や、東京、川崎などに通じ、きれいな乗用車、大型バス、トラックが走っています。

ビルディング街から新しい商店街につづいて、大きな工場ができ、力いっぱいの活動をしています。また明るい日ざしをうけた小高いおかの上には、みどりの芝生にかこまれたじゅうたくがきれいにならんでいます。

みなさんが、中学生になるころにはこんなすばらしい港北区になることでしょう。先生といっしょにいろいろ話しあってみましょう。

(「わたしたちの港北区」p102~p105より)

・・・・・・

50年を経た港北区は、当時の小学生たちが夢見たように、果たして立派な街になれているのでしょうか。考え込んでしまいました。

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【参考リンク】

「わたしたちの港北区」1969(昭和44)年版(社会科副読本)(横浜市立図書館デジタルアーカイブ、PDF版のダウンロードはこちら※少し時間がかかります)

「わたしたちの港北区」1976年版(大人向けのパンフレット)(横浜市立図書館デジタルアーカイブ)